騙された(;´Д`)〜雑記〜
ポロリ

【1月19日(晴れ時々落雪)】
 さて、どうも私は転換期を迎えたようだ。そこで、徒然に雑記したいと思う。管理人様と読者様には甚だ迷惑かもしれないが、さして革新的なことを語るわけでも、新しげなことを書くわけでも、他人に対してどうこう言うわけでも無いので、見逃していただくとしよう。

 私は、自分の言説によって、他人の思考がブレルことが嫌だ。というのは、他者は、成熟したものとして私と対立していることを前提に、存在しているものと考えているからである。そこには、独自性と、個別性と、尊厳性と、唯一性と、存在の無作為性と、非支配と、創造性と、実行性と、意識の作為性と、情熱と、生命力と、(あとなんだろうな、まぁ、私からすると、侵されざるべきもの)があるのだ。
 なので、私は、私の表現行為の全てを、非常に軽いものに仕立てようと心がけている。具体的には、対象となるテーゼが社会に及ぼす影響を明らかにすることで、自由と規制の両面を焦点化し、読者をどちらにもぶれない地位へ誘引してきた。
 しかし、考えてみると、私は表現行為を社会に及ぼす影響そのものとして捉えているので、社会的に有用な言説を志しながら、社会的に無意味に帰する手段を心がけていることになる。なんと救われない作業だろう。ああ、愕然。
 そして、今回の村上春樹である。
 社会的有用性があるか否かは、社会的価値に還元できるかどうかで決せられる。詩を、インスピレーションの原風景と考えると、反論(反証)可能性が無いので、社会的価値に還元できなくなる、あるいはできたとしてもそれは詩の本質的理解とは異なるのである。
 したがって、詩を社会的影響で捉えることは無意味だと思えた。
 だが、実際には逃げ道がある。演繹的に社会的価値から社会的影響を考えるのではなく、帰納的に社会的影響だけを考えるのである。
 詩をインスピレーションの原風景と考えると、それによって影響を受けたものはその後に出てくることになる。たとえば、読者がある詩のある言説に影響を受けたといえば、それがまぎれも無く、その詩の価値の一部なのである。病み付きになって特定の作家の本を読む読者が存在するということは、その作家の書いた本にそれだけの価値があるということなのである。
 そうすると、どんどんと量の話になっていく。そして、コミックには純文学に比して多大な社会的影響があると考えることになる。しかし、それではいけないと考えると、今度は読者の質の問題になってゆく。
 だが、やはり量の問題であるべきだろう。個人が、どれだけの時間をその表現行為ゆえに割いたか、それが最も問題となるべきだろう。時間は命と等価なのだから。

 そうすると、どれだけ多数の人間の合意を獲得できるかが、全てのものの原点になる。

 ようはレトリックの問題なのだ。
 くだらないことをファッションにしてそれに価値を創造するのが、必要最低限の衣食住以外の物事である。そのくだらないファッションを如何に価値在るものに見せるかがレトリックである。
 世の中に存在するエンターテイメントも純文学もくだらないことに変わりは無いが、その違いは、前者は最近価値在るものに仕立てられ、後者は昔価値在るものに仕立てられたということだろう。
 結局どちらも虚構の産物なのだ。

 2chの「面白ければ何でもあり」というのが、価値の原点なのだ。

 表現者とは如何に受け手を騙そうかといつも考えている詐欺師でしかないのである。

 ああ、納得。


【1月20日(晴れ時々転倒ゆえに大雪)】
 物事というのは、これ以上つめられないと考えたところからが勝負である。その限界を超えなければ、オリジナリティーは生み出せない。難儀な社会である。
 私は常々周りから言われ続けてきたことがある。それは「想像性はいいんだけどねー。求められている結論が逆なんだよねー。」ということだ。全く納得せざるを得ないのが、結果から導かれる現状である。(´・ω・`)
 思考は、【想像⇒構成⇒実行】をたどり、ひとつの形を作る。
 私の人格の中の1つはこの想像力だけ持っているというのが話の筋だ。他の人格を介在させても、この構成と実行の段階が、あまり上手くいかない。なので、このへんで自分を悔い改めたりしちゃったりして、構成力と実行力を私の全人格の力をあわせて、伸ばしたいと考えているわけである。全く、難儀な社会である。

 とりあえず、詐欺ということについて考えてみるとしよう。
 法的に言えば、詐欺罪で有罪の判決を受けた者が、詐欺師である。その対象となった行為が、詐欺である。
 だがしかし、だがしかし、考えて欲しい。「完全な詐欺」というものを。

 「完全な詐欺」

 これは完全犯罪とも関係を有するが、通常、完全犯罪は、「警察に捕まらない」ということを前提に考えられている。が、たとえ、警察に捕まろうが、検察に問い詰められようが、有罪判決をもらわなかったら、完全犯罪であろう。しかし、もっと進めて、行為が犯罪と疑われもしなかったら?どうだろう。より完全な完全犯罪なのでは無いだろうか。

 たとえばの話。ある新商品が生まれるとする。それは今より使用者を便利にしてくれる。そして、安く、ちょっとオシャレだとしよう。
 この新商品のメリットは、便利、安価、オシャレということだ。この便利、安価、オシャレという価値は商品の生まれる前に存在している。しかし、便利、安価、オシャレが価値と認められていない社会が、現在も存在するように、過去には存在し、歴史的な流れの中で、これらの価値が生まれたのである。それは宗教によっていたかもしれないし、王様がそのように取り決めたのかもしれない。
 新商品で見るように、それは必ず何かの価値によって基底されている。そして、その価値が労働評価され金銭評価される。
 詐欺行為の一類型として、金銭的に釣り合わない交換があるが、この価値基底の合意が無ければ、全ての商品、あらゆるサービスは価値の無いものに、金を払うことになり、詐欺になる。

 つまり、価値基底の合意を利用した言説(ex.安い、便利、オシャレとの広告)が詐欺行為なのである。

 現代の社会は、そのような価値基底の合意を当然の前提として取引されているので、このような詐欺を詐欺と認識できないのである。全く、ずばっと、難儀な社会である。

 そんなわけで、我々は、日常的に詐取されまくりなわけだが、価値基底の合意を問い直そうなどと誰も思わないので、完全な詐欺に気付いていないのである。全く、ずばっと、ヌーヌー、難儀な社会である。

【1月21日(晴れ後流血)】
 雑記へ、よ〜こそ。中島みゆきって大好き。詩とか歌じゃなく、ラジオが。人間が。
 言語に潜む詐欺について延々と書いてゆこうと思ってたのだけれど、ちょっと思いついちゃったモンで、メモ代わりに書こうと思う。
 私は「良い詩」について約二ヶ月の間考えたことがある。

http://hp.kutikomi.net/poro2/?n=column1

 結局、答えには至らなかったが、この考察は私のメインテーマと直結しているので、無駄なわけではない。断じて無駄ではない。繰り返すと、なんだか不安になってきたが、無駄ではない。はずである。はずであるべきだ。はずであって欲しい。はずであってお願い。
 ということで、答えらしきものが出たので、書いておこうと思うわけである。

 詩を「インスピレーションの原風景」と考える。
 インスピレーションの原風景とは、詩とは読者にイメージを与えたり読者を何かに駆り立てたりする、一種のエネルギーということだ。
 では、どうやったら、そのエネルギー塊を表現できるか。批評が好きなものとしては悩みどころだったのだが、このほど答えが出ましたー!拍手ー!ぱちぱちぱち
 その答えは、対象となる詩の全ての価値を抽出してしまうことである。想像の及ぶ範囲で全てを洗いざらいさらけ出してしまうのである。
 そして、その全部出ちゃったものを眺めなおすのである。
 そーすると、その詩のイメージと批評のイメージが浮かび上がることになるだろう。
 んで、両方比べるのである。イメージを。ぴったり合うことは無いだろうが。
 それで、考えるのだ。両者にどれくらいの隔たりがあるかを。批評のイメージが勝っちゃったら、詩はそれほどの価値は無かったということだ。両者が同じなら、詩はその程度のもので、詩としての価値は無かったということだ。そして、詩のイメージが勝った時、その詩は詩としての価値を有することを意味するのである。

 語りつくしても、まだ何かある気がする。

 その疑念こそが、詩の「インスピレーションとしての原風景」なのである。


【1月22日(未定)】
 社会というものについて考えてみよう。くだらない洒落は抜きで。くだる洒落が書けるかって言うと、どうも無理みたいなので、洒落はこの文章には入らないらしいよ。噂によると。

 社会とは存在するものだと、私達は思っているが、実際には作るもの、作り出すものである。

 社会的な価値や社会的争点は言説により日々変動しているのである。米国大統領やホーキングなどの言説は大きな影響力を持つ。しかし、私たち名も無き個人の言説によっても変動はある。社会は、多重的に折り重なって形成されているが、局地的な社会では個人的言説の影響力も決して無視はできない。

 それに、殆どの会話は、昔形成された同義的な規範について同意で塗り固めるものであるが、その上塗りこそが最も強固な社会的コンセンサスの形成に役立っているのである。

「飯を食え!」

 という命令規範を考えてみることにする。
 ここには「理由」が隠されている。
 たとえば、「栄養を補給しないと人間は死んでしまう。人は生きなければならないから、栄養を補給しなければならない。だから」ということである。あるいは、「しっかりとした労働をするには、頭を使わなくてはならないが、頭を使うには糖分が必要である。だから、労働の前に」ということである。

 前者は生きる義務、後者は労働の義務を内包し、生存価値と労働価値を保証している。

 社会は「飯を食え!」という言葉ですらその形成をゆだねられているものなのである。

 言葉遣いにはご用心である。

【1月23日(夜半から雪後人に夢)】
 いつの間にか、日記代わりだ。うーん。ここまでくると、サーバーに負荷が掛かるだろうか?自分とこでやれってなことだが、道徳観念が欠落しているようなので、無駄無駄無駄ーである。

 Fiorina様に言われるまでも無く、私の詩及び詩の批評には重大な欠点がある。それは、「リリック」である。詩を「インスピレーションの原風景」と考え、詩から価値を排除して、それでも残るのが、「リリック」であろう。つまり、この「リリック」こそ詩にとって不可欠な要素で、そして詩の本質部分だということである。
 私は、長らく、これを否定し続けてきた。自分的に。文章中で否定したことは一度も無いが、意識として否定していることは誰の眼にも明らかだろう。普通の詩人(詩人に普通がいるかどうかは微妙だが)は、詩人ゆえに、本能的にそれを理解しているのだろう。だから、リリシズムむんむんの詩がお好きなのだろう。はっきり言うと、私には理解できない。リリックの意義も今もって理解していないし、リリシズムの何たるかなど、さっぱり、すっきり、である。
 しかし、やはりこれが詩の本質なのである。制度として理解せずには先に進めないし、私の文章能力の向上、突き詰めれば、思考の構成力と実行力の練成に欠くことはできない。
 だから、今後はリリックを言説の内部及び外部に取り入れるつもりなのである。

 さて、「リリック」がどこにあるか?私にとって非常に不可欠な問いである。だが、答えは簡単である。私が理解できない詩にある。
 今まで、読んできた詩の中で(時間が限られているゆえに、1/10時点で20ポイント以上及び私にポイントを与えてくれた人達の詩しか読んでいない)、それに該当するのは、fiorina様・あする様・くすり売り様(ここまでが最も私にとって難解)、露見草様・いとう様・狸亭様(その次に難解)の詩である。
 かの詩人たちの詩が理解できた時、私の詩の理解及び詩の構成力も飛躍的に向上するに違いないと思っている。(思っているだけなので、誰彼に攻められるイワレは無いことをここに書いておこう。)

 でだ、取っ掛かりは、Fiorina様のどこかの文章に出てきた。「詩人を一度愛してしまった人は、もう詩人しか愛せない(というような言葉。記憶があやふや)」というものである。

 私も詩を書くようになってから、以下の文章を書いたことがある。

*******
 プラトンの2頭だての馬車の話から、ヒュームは人間の行動は欲望によるのだといいましたが、それを基底に、文学が語られた場合、食欲・性欲・睡眠欲が云々なんて語られることがあります。
 ここで取り上げたいのは、性欲という、欲望・欲求・快楽の追求・選好ですが、ここには分化された快楽があるのではないかと思うのです。
 1つは物理的快楽です。痛みと同様、肉体的刺激を受けることで、脳が反応するわけです(脳神経を学ばれたあなたそうあなたですよ。詳しく解説してね)。
 もう1つは、精神的快楽です。ある記号を受けることで、脳が物理的刺激と混同し、同じ反応を示すわけです。
 では、この精神的快楽とは、具体的には何なのでしょう。私の場合、自己のセックスとセックスアピール、それからTV、ビデオ、雑誌、本やそれらの周辺の事象です。
 ところが、最近困った現象が起こっています。私の選好が、物理的快楽以上に、精神的快楽を求めてやまないのです。パートナーとの中が急速に悪化したとか、マンネリとか、そのような次元でなく、明らかに選好が変わったわけです。
 以前は、セックスを頭で夢想しても肉欲というべきものでした。それが今では、明らかに前戯以前のセックスアピールが快楽それ自体を左右します。
 そこで、このイメージのふくらみは、何処から来ているのかと考えると、詩じゃないかと思うわけです。「意味を生み出す力」のおかげで、つまり曖昧さなどを意味に結びつけることが快楽(アリストテレスの言う「喜び」)となったおかげで、セックスアピール(男女の駆け引き)それ自体が、詩と同様の快楽を生み、さらに、それが性的快楽と直結しているのではないかと。(詩を読むことそれ自体が、知的快楽をバイパスして、性的快楽になったらどうしようと、かなり不安。)
 そして、考えが及ぶわけです。安定した関係(ex.恋人)におけるセックスアピールと、不安定な関係(ex.赤の他人)におけるセックスアピールと、どちらが、より素晴らしい演出が出来、また演技を鑑賞しうるかと。答えは・・・だから・・・
*******

 そして、ネットポエマー方々の文章を読むと、比喩やたとえ話がかなりの頻度で入っていることがわかる。
 つまり、詩人気質の人には、物事のあらゆる側面に、彩を加えなくては収まりがつかなくなっているのではないかと思う。関西人が話にオチをつけるように。詩人は物事に彩を加えることに快楽を見出す人間なのだろうと思うのだ。
 結局、その彩を、どう表現するのか。どう評価するのか。それが問題なのだろう。

 そうしてみると、私の文章は裸同然でちょっと恥かしい気もする。

 このまま「裸族」でいこうかとも思っているのだが。


【1月24日(槍は降らない)】
 21日と23日の文章を比べると、「インスピレーションとしての原風景」のイメージが違うことに気付いた。

 どうしたものだろう。

 やはり、21日のイメージがしっくりくる。こっちのほうがかっこいい。こっちのほうがダイナミック。こっちのほうがパワフル。こっちのほうが不穏な雰囲気。
 ということで、21日のほうを正解にしたい。のであるが、「リリック」と完全に分けられるべきものでも無い気もするが、必ず「リリック」が入るとも言い切れない。

 なーやーむー。

 おしっこちびりそう。

 どうしたもんじゃろう?

 どぎゃんすっぺか。

 あしつった。

 脳味噌もつりそう。

 無理に結び付けるべきじゃなかったようだ。21日はそのままで、23日の「リリック」の話は、自分に足りないものというだけにしておこう。

 さて、言語と社会に話を戻そう。22日に言語の社会的な影響を書き、20日に言説が基底されている土台が如何に不安定であるかを書いた。つもりである。ちょっと説明が足りないが、まあいいだろう。後々加筆修正の方向で考えておこう。そんなつもりは毛頭無いが。理解するんじゃない。感じるんだ。君はニュータイプ。
 そして、22日にそれら言説が社会を日夜構築していることを書いた。つもりである。(中略)君はニュータイプ。

 そんなわけで、表現者は、社会を作る人間であるわけだが、同時に、詐欺師でもあるわけだ。

 人は、不確かな土台の上で、延々と踊る。それが人生だ。

 そして、土台は、詐欺師たちの戦場だ。

 言説の一つ一つが、土台を打ち砕き、新たな土台を作る。

 土台にのった人は、その度ごとに、悲劇を演じる。

 不確かな土台を、詐欺師は、特に正義と叫ぶ。

 そんな光景をよく見る。


 私は気付かなくてはならないと思う。そしてひとたびごとに自己の言を省みないといけないと思う。

 表現者の言説の一つ一つが如何に暴力的であるかを。

 如何に洗脳されているかを。如何に洗脳するかを。

 如何に無抵抗に受け入れられるかを。

 如何に無制限であるかを。

 如何に支配的であるかを。


【1月25日(ヤミノナカノシ)】
 もう、終わりにしよう。
 僕は疲れた。
 考え疲れたよ。
 君も、もう、厭きただろう。
 この辺で終わりにしよう。


散文(批評随筆小説等) 騙された(;´Д`)〜雑記〜 Copyright ポロリ 2004-01-19 01:17:32
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