批評ギルドの大覚アキラのサンドウィッチ
黒川排除 (oldsoup)

大覚アキラ『サンドウィッチ』
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 前回の反省点としては少々しめやか、じゃなくて空気が湿っぽくなったのはおれの書き方が悪いだけであって他の誰も悪くないんで罪とかはおれがかぶるよといった感じのもうちょっと楽に書いてもいいんじゃないかというところの一体どの辺が楽なんだというに肩の力を落としてみたらキーボードが撃ちにくいわけだしとりあえず書くというのはおそらくひとのために書くんではなくておれは自己満足のためにそういった文章を書くところのジコマンって書くとなんだかいやらしいですよねー キーボード撃つってなによ、バキューン!

 さて、食べることに拒否感をおぼえることでこの詩は終わる。なんという破滅だろう。おそらく見ようによってはその前からの流れ含めでしりすぼみとも取られてしまうような最後の一撃を、どうして彼が繰り出さねばならなかったのだろうかという点を軸にちょっと書いていきたい気持ちではある。サンドウィッチ。サンドイッチ。どちらでも変換できる。サンドウィッチと書けば亡きコンパイルが思い出される。何書いてんだ。サンドウィッチだ。だそうだ。サンドウィッチとは調理品だ。当然ある程度の工程を経て、あるいは手作りなら手順を経て、調理されて、食べたがっているひとの前に出される。これから書かれるのは調理の手順である、彼の目の前には料理の材料が転がっているに違いない、しかも大量に転がっているに違いない。実際彼はそれを矢継ぎ早にミキサーにでもかけるように接続していく。なんだか具体的なものも抽象的なものもひっくるめて押し込んでいく。それは本当にサンドウィッチを作ろうとしているなのか? そこで、それは間に挟まるものだということが示される、おお、これらは具であった! おお、なんと先程からわざとらしいおれの書き方! その辺をブチブチ読んでいくと、少なくとも先生とか病気かとかそういう台詞めいたもので、彼が医者で彼女が患者だということがわかる、というか性別を無視すれば医者と患者のやり取りのうちになにかを託そうとしているのが分かる。要するに彼は調理師めいた医者であり、即ち料理めいた薬をつくろうとしているのだそれぐらいはわかるぞそれぐらいはわかるんだ。しかし彼が用意した材料とは、果たして調理するものかされるものか? 調合するものかされるものか? 彼が使う材料なのか彼に使われる材料なのか? ここで彼はじぶんの優位性を確固たるものとせんためにそれらを分類する。それらを対立させることによって彼が神様的な。英語でいうとゴッド的な。ここにおいて彼と患者はまったく同一と化して、その、二律背反! 的なものを全部ちゃぶ台に乗せて、いい感じと言ってみせる。どうだ、いい眺めだろう? どうだ明くなつたろう。そしてちゃぶ台を世界と名付ける。まさしくSである。そして最後にそれをひっくり返す。ドSである。時事ネタを使うとあとで寒くなるような気がしないでもないが、おれの知識の限りにおいては「世界がそれを愛と呼ぶモノ」とはあれだ、あれだよ。なんかJ-POPらへんで噂のやつ。って、えっとー、おれは思ってないですけど作者が? なんかそういう使い方してるから? 思ってるんじゃないの? みたいな? という話はともかく、それにガソリンをつけて火を放つとはまさしく、安易に使われた「世界」という言葉を酷く嫌っている表現だ。それ即ち、ちゃぶ台ひっくり返しである。ところで批評と全然関係ないんだけど、最近は、なんか歌の間に語りをいれるのが流行りなんすかJ-POP界隈では。ちょっとね、有線とか聴いてるとね、恥ずかしいの。なんかペラペラペラペラ、ジャーン(ギター)みたいな。あれ? おれブサンボマスターとサンボマスターごっちゃにしてない? ごめんね?

 余談ついでにもう一つ。この詩には詩人ということばが入っているのだがおれは基本的に詩とか詩人とかいう言葉を詩の中に入れるのは好きじゃないというのはあくまで個人的好みの問題で詩という概念からすればすべての言葉を使っていいわけであって単純におれの好みであって。詩人が詩という言葉を詩に入れるのは、表現しようとしているものを表現しているような変な感覚。なんだこれ矛盾してないか? というような。辞書で○○という言葉を引いたら「△△に同じ」って書いてあるがごとき無念さ。おれ的には詩という言葉を中に入れてしまうと、「今から書くものは詩であるけれどその詩の中に入っている詩という言葉は一体なんなのか」ということをいちいち考えてしまうので使わないし好かないと、まあ好みの問題でした。

 それはともかく後半戦。彼はかようにして二律背反的な、上であり下であるところの左であり右であるところの包括的な何かについて書いてきた。だがどうだ明くなつたろうと言った(言ってねえ)直後ぐらいからいよいよ汚いものばかり書くようになってくる。こぎれいな言葉たちはどんどん行き場をなくしていく。彼の連は細長く連続し連結して書き分けるつもりもなく匍匐前進を続けていく。だがよく見てみればそれらは一連の動きを持っている。汚いものは部屋の中に集められていくのだ。彼がかろうじて書いてる綺麗らしいネオンであるとか色はすべて部屋の外の物体である。彼は手の届く範囲に汚いものを集めていく、黄ばみ、染み、精液、血液、正体不明のもの……。ドメストを買って持っていってやりたいぐらいだ。だけれど彼は汚いものを集めて部屋の中に閉じこもってしまった。ドメストはいらないのか。このように彼はたくさんのものを書いて、集めて、例示した。それらは先に書いたように、患者が指摘した通り、具であった。具とは「はさまれるもの」である。では「はさむもの」はどこへ行ったんだ? 彼は確かに彼の最良の具を集めたかもしれない、しかしそれで一体何を作るのだ、サンドウィッチは、サンドウィッチは? その前にちょっと立ち戻ってみれば、どうしてサンドウィッチなのかという話だが、これは間違いなく、食べるためである。別に尻にはさむわけでもなかろう。いくら汚いものを書いたからと言っても。彼はおそらく食したのでありあるいは食することを試みて、そして吐いた。まるで彼がのちに、食に拒否感をおぼえることを予感するかのように吐いた。吐いているものはすべて男性の欲求であるような異性である。ぬいぐるみなんかはお肌スベスベであることを考慮するとダッチワイフ的なものなんじゃないだろうか。しかし彼は吐く前から既に女性の存在を認めていないではないか、女性を書いてはいないではないか? あの患者はそういった意味でもやはり早い段階から同一と化していたのだ。あの具、サンドウィッチを夢見ていた具はもともと異性であるところの患者が食べるはずのものだったからだ。だが彼が食し、彼は嘔吐し、女性を無自覚に排斥し続ける。では患者のとの同一化はいつから始まっていたんだろうか。

 「わたしは病気ですか」と彼女が問うた場面がある。彼がそのときには既に彼女と同一だったとしたらどうだろうか。ついには汚いものを集めた部屋に閉じこもってしまった彼、彼こそが自身で指し示したところの病気、病人であるとしたら、そこに回答は出るのではないか。では彼は病人だ。病人だから病気を患っている。病気は治療せねばならない。病気の治療には不安がつきものである。あの患者の一言には治療を望んでいるようなふしがあったかなかったか、なかったのではないか、ひょっとしたら病気に酔っていたのではないか、では自分はどうか、などという不安。そういった不安は、しかしあの逆説的な最終連で見事に否定されている。彼の強さは、そうだ強さもあるんだが、それは彼が書かなかっただけだ。それは嘔吐に耐える強さにある。彼は嘔吐に耐える。ただ耐える。嘔吐の連が終わってもなおひっそりと嘔吐は続いており、彼はついに患者である異性を吐く。そしてそのとき、おれがドメストで洗い流してやりたいと思っていたあの最後のもの、正体不明のものをまじまじと見つめ、向き合い、彼は既存のものにガソリンを撒く。そして焼く。部屋ごと焼く。パンも焼けるか? よろしい、パンも焼こう。彼はいずれそうするはずである。サンドウィッチとははさむものをがないと形を成さない。具が折り重なっていてもそれは具でしかない。パンを焼かない彼の世界もまた一片の具に過ぎない。少年よ大志を抱け。大覚アキラはパンを焼け。













#焼いてなくてもサンドウィッチなんですってねえ奥さん


散文(批評随筆小説等) 批評ギルドの大覚アキラのサンドウィッチ Copyright 黒川排除 (oldsoup) 2005-11-29 02:08:58
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