くるしうこそ
佐々宝砂

私は今真剣に迷っているのだけれど、それをどう説明したらいいかわからない。わかるひとには説明しなくても済むし、わからないひとにはいくら言ってもわからない。迷いや悩みなんて、大概がそういう性質のものではあるけれど。

詩なんかやめちまおうかと思ったりする。いや、たぶん詩作自体はやめたりしない、つーかやめられやしないと思うんだけど、投稿はやめちまおうかなあ、とか。詩の投稿してると、なんのために詩を書いてんだかときどきわからなくなる。私は二流怪奇詩人になりたくて三流怪奇詩人と名乗ってる、それは確かだけど、二流にしろ三流にしろ怪奇というものはひとさまが思うほど一般受けするものではない。受けを狙って、ではなく、好きだから、否、必要だから、そういう分野を選んでいる。だけど投稿してるとつい受けを狙っちまう。いや、狙い定めること自体はいいんだけど、つい、一般受けを狙ってしまう。これはいけない。いけないいけない。私は人好きのする一般受け詩人になりたくはないのだった。なろうと思やなれるかもしらんが、なれてもならん。断じてならん。ならないぞー。

私にはわるい癖がひとつある。「怪奇詩人名乗ってますがね、私は普通のものも書けますよー」と自慢してしまうのだ。私なんでも書きますよー、ソネットも散文詩も脚韻も頭韻も歌詞も俳句も短歌も川柳も、へへへっ、あたしすごいでしょー? あーいやなやつ。やめときゃいいのに「普通の川柳」なんて古くさいものを引っ張り出したりしてしまったのは、「私は普通の川柳も書けますよん」という自己顕示欲の結果だ。いやだいやだ。といいつつ、しかし削除はしないのだった。それどころか「普通の詩なんてラクチンさ、普通の川柳も普通の俳句も簡単さ、けっ」と挑発してしまったりするのである(いやホントのことを言えば、「普通の詩」はもしかしてラクチンかもしれないが、「普通の俳句」は決してラクチンではないと思ってます)。

私はまだ、開き直りようが足りない。まだ隠している。まだ恥じている。私はいったい何を恥じているか? あなたにはわからないかもしれないが、ともかく私にはわかっている。実に実に触りたくないが、触ることになるだろう。どだい昔から、マイナー怪奇作家の末路などふたつしかない。

整然と狂えたらランボーにでもなれるかもしれないが、私は凡人だ。私は凡庸な人まね小猿だ。そのことを私は悲しまない。でも誰かわかってくれないもんかしらと思いはする、だって私は凡庸な一個人なんだから。


散文(批評随筆小説等) くるしうこそ Copyright 佐々宝砂 2004-01-15 03:09:02
notebook Home 戻る  過去 未来