ギルド批評05/11/15
黒川排除 (oldsoup)

リョウ『豚』
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hyro『out from a door』
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 おれ前どんな風にして書いてたっけ? と考えるにあたって思い出せないので、前の文章を見てみたら、いやあ、誰の文章だよあれっていう感じで、もう一気にダラダラしてきたわけですが、そういうわけでこんばんわ。ひととの対話風味に書くことは長けているかもしてない、しがないわたくしめが書かせていただきます。参ります。

 文章を書く熱というのは衰えてないもんでその変のグダグダは前書いたけど、あっ変ってなんだよ辺な、その辺なんですけどー、みたいな感じにともかくまあ日記風の文章ならともかく(といっておれをなぐさめる)、それを一つの作品として出す場合には少なくとも誤字脱字ぐらい確認してほしいなあ。おれのハードルが今かなり上がった気がする。しかしえーっと、最初のお題のリョウ『豚』ですけど、「言って」と「行って」がまず誤字だよ。詩の中に誤字があるとすごい萎えないか? というのは作者だけにあらず、少なくともポイントを与えてる複数のひとは誤字に気付いているはずなんだが指摘してあげないと作者がかわいそうだと思う。でもまーそもそも行ってという字自体もクセモノですけどね、イッテなのオコナッテなの? っていうことになるんで。シキシ・イロガミとかカク・エガクだとか日本語にはぼくらを悩ませる文字があまりに多いね。誤字は指摘すればすぐ治せるんだけど、次に指摘するこれはどうか。この詩はおそらく同じような形を持った連があるのでそのへんを意識してるんだと思うが、だとしたら「それはきっと」「きっとそれは」「それはきっと」「それはきっと」とあるうち二番目は明らかにおかしいんだけどこれは意図してやってますと言われたらそれまでなので書いておく程度にしよう。

 つうか連って呼び方で本当に良かったんだっけ? と思って調べたら日刊小学校教師用ニュースマガジンが引っかかって十分ほど虜になった話は、えー、いいか。

 赤ペン先生みたいな添削みたいなことももういい。本題に入らないと怒られる。ベッドに泣いている豚やプロレス技をかけている豚が本当にいるわけないのでこれはひとを指している。豚のようなおれ、というよりは豚に見えるおれ、なのだね、あるいは豚と呼ばれるおれ。豚と言えば卑下の言葉だ。犬とかな。タクティクスオウガ、懐かしいね。メス豚って言えば「かわいらしいメスのブタちゃん」っていう意味ではないことはだいたいのひとがご承知なわけだし。自らを豚とおとしめてはいるがしかしそれが重要であると。豚という存在が不条理ではあるが不条理は世の中に必要であると。題名に据えられているところから見てもざっとの概要はこんなもんだろう。不条理というと蛭子能収ですよね、まあ豚に見えないこともないけどあの人はあれでかわいそうなんだよ。豚といえばちょっと前にテレビをみてたら偶然豚の番組やってて、生徒に豚を飼わせて名前まで付けさせてかわいがらせたあげくに最後どうするよお前らよみたいなやつ。食う? みたいな。あれはあれで不条理だよねーあれを作者のひとが見てたらとしたらすごいよねーテレパシーだよねーシンクロニズムだよねーと思って書かれた日付け見たらなんか違うっぽいね。残念残念。

 で、じぶんをフィルターにして豚ぶたと散々罵った後、最終行で「お前もだ」と言う。これは特定の人物というよりは読み手としてのお前だ。境遇の物語でありそれを共有するためのプロセスでありまた共有思考に対する依存でもあるこの詩はこうして幕を閉じる。つまりこの詩は閉じ際にさっと手が出てきて中に入れようとする、その手だ。帰ろうと思ったら鍵をかけられるのだ。しかしその手の握力は弱い。自らの活動をして恥を露呈し豚を実感させるには露呈の仕方が足りない。ではこれは彼の本意でないとして、彼が豚であるということはどういうことだろうか。見ようによっては彼の周りが豚であってほしいという力点から彼自身があえて豚を演じているようにも見える。だが全員が豚であればそれは全員が人間であることとなんら変わりないようにも思える。だとしたら彼の求めているものは平等なのだろうか。あるいはその平等な豚の世界の上に、人間たる支配者を望んでいるのだろうか。これ以上は彼が豚である以上余計な詮索かもしれない。事実は彼が人間として再度語るのを待つ必要がある。

 彼もそれを待っているようだ。魔法を解く魔法使いでもなんでも、彼の元に歩み寄って境遇を理解し彼の変身を解いたり対話者自身にも魔法をかけて一緒になってくれるような、まだ豚でない人物を。それは詩の冒頭より積極的に対話というか、呼びかけが見えることにもうかがえる。彼は歩み寄る者に何かを言ってほしいのだ。生きているものを欲しがっているのだ。肉食獣のうめきとも言えるものだ。そのためにさかんにペコチャン人形であるとかカーネルのおっさんだとか仮面のなんたらと対峙、それもわざと対峙しているのである、見ろよと。おれの欲しがってるものはこんなのじゃなくてお前の生肉だよと。であれは彼はKFCの扉を開けるべきであった。開けて、豚ではないが肉を注文し、食うべきであった。貪るように食って、生に対する貪欲さを見せつけるべきであった。ここまで書いてしまうと蛇足に見えてしまうかもしれないけど、なぜかと言えばそれは彼が生とか死のイメージを詩の真ん中らへんにいきなりドーンと持ってきているからであった。おれはびっくりしたのであった。びっくりして、もうここまでにしようと思うのであった。

 いや、まだ一つ残っているなと気付くのであった。そういう流れはもういい。くどいって言われる。顔がくどいおれが喋りまでくどいと言われる。でもさー実際にはくどい話をしなければならないわけで、というのはなんでかというと、次に続く批評であるところのhyro『out from a door』なんだけどー、種類がよう、おんなじじゃないですかよ。でもおれが登録された近辺のやつというとこれとこれの二つしかなかったわけなんだから本当はもっと色をつけたいところなので、みんながもっと批評ギルドに参加すればいいんだと思った。いいこと言った! 幸運使い果たして寝ている間に死にそう。で、なんていうの、まあくどい話なんですが、この作品も「みんな」と「皆」ぐらい統一しようよ。べつに特に分けて書くと効果が出るようにも見えないし。統一しないと気持ち悪いよ。なんとかビリティーだよ。忘れた。詩の途中でぼくがボクになったり僕になったらうっとうしいでしょ? その辺で間違えてるひとはいないんだからもうちょっと慎重に扱おうぜ言葉は。あっでもおれのこの文章は読めればいいのでそういうのは抜きにしてね、はあと。

 今の詩もさっきの詩もどちらかというとややストレートな雰囲気を醸し出している。叫んだら気持ちいい部類だ。逆のことを書いて、本当に言いたいのはこっちの方なんですよ、と誘導するパターンだ。本当にそういうくくりがあるかどうかは知らないけど。個人的なことを言えばおれはまず書かない部類であるとは断言できる。その辺の共通項からバンバン進めていきたいんだがまあなんせ書くことがかぶるもんでその辺ちょっと許してほしいんだけど、というよりむしろさっきの詩をバンバン引き合いに出すわけだけど、えー、さっきの詩もこの詩も恥を記述しているわけだが、基本的にひとは本当に知られたくないことは書かない。それが下品であるとなおさら書かない。今日泌尿器科に行ってお医者さんの前でこういうポーズを取りましたなどと、ネタ風には言っても実体験として真面目なところには滅多に出してこない。だから書いているのはそれよりも三歩ほど手前の「やや恥」な部分である。それが例えば彼の詩一連目に書かれているような部分だ。おれが三年ほど前まで自宅で大声出して黒夢のナンバーを歌ってたことに匹敵するのかもしれない。

 そういった恥を作品として出すことが彼ら(先の作品を含む)のアヴァンギャルドだとして、話を次へ。この作品も「君」とおれとの関係を、つまり外的な関係を手がかりに何らかの結果を得ようとしているものだと言える。経路はこうだ。まず、その関係の領域を徐々に拡大して占領していったものを、「みんな」に奪われる虚脱感がある。そして大きい空行により表現された断絶を挟んで、彼が「みんな」と定義づけた一団体は輪廻のようなイメージの中にもつれ込む。ここまでの流れは良好であり、ここからの流れが良好でない、言い方を変えるとちょっと謎である。謎であることは詩の方法の一つではあるけれど、さっきも書いたようにこの詩はストレートであるので、おそらく謎めくことを求めてはいないだろうけど謎めいている。希望を求め手探りでも執着している姿勢を見せていた青年(もしくは少年)が、いつの間にか絶望にぐれている調子の悪いやつになっている。一旦は「君」を希望としてとらえつつも、最後にはそれを逃がすかのような疑問符がある。というわけだ。そうして、よしよし、先の作品とまったく方向性が違うのはここからで、彼は他者と共有したいと思う多くの望みを、その最後の行で完全に諦めている。なぜなら彼は弱気であるからだ。先程の空行、断絶は窓から飛び出していったことによる時間の経過だ。ところが最後には疑問符とともにまだ飛び出していない「君」に向かって呼びかけている。というか、ええっ、まだいたのという感じだ。なぜ「君」と呼ばれるその人間を、彼は出て行くときに連れて行かなかったのか? この点でおおいに彼は弱気である。彼は絶望のために完全に弱気になって、ヘコんで、ぐれて、どうしようもない。落ちかかっている絶望からはもはや逃れようがないし、逃れるつもりもない、ということが書かれている。なんのために放り込まれたかよくわからない「君」は不幸だ。そうそう、このキミの存在理由が謎の核であった。ちなみにこの詩において「みんな」と「君」は完全に排他だ。とすれば彼はこの「君」と呼ばれる容器に特別なひとを入れたがっているだろう。だがそれはやめておくべきだ。なぜか、不幸だからだ。

 では謎を除いて改めてこの詩を見るに、次の一手が見えないこと、これが問題だ。現状はわかった、だから彼はどうしたくて、どこに行きたくて、どこを飛び回りたくて、どうゆう風に自らを改造したいんだ、踊れ踊れ、それで一体いかなる表現を引き連れて、どんな軽快なステップで踊ってみせてくれるんだというところの踊りを見せる予定がこの詩にはまったくない。それはさっきの詩にも言えることだが(飛び火だね!)、せっかく現状を理解し、現状における領域を理解し、それを広げる努力もしているのに、さてとそこから動かない。こんな感じで領域を広げてみたおれってどうよ的な穴にずっぽりはまり過ぎている。凝った望遠鏡を作ってお披露目の際には制作者をご覧くださいねと言われるようなつまんなさがある。漫然とではなく明確にある。ここでおれがつまんないというのは、そうである理由を説明し切ったつもりだからではあるのでようやくのことだと思ってもらいたい。

 後者の詩には暗闇と空白による舞台設定があった。前者の作品はちょっと無理があると書いた手前アレだが生と死が舞台設定であった。一方は精神であり一方は肉体であってその両方が踊らなかったので、おれは席を立たなければならない。出発点の似通っていた二人の書いた作品がこうも分かれていく、それはそれで興味深いことだ。しかし輪廻であれ死生観であれ、遠いから書きやすいのであってこうも近い位置にあると逆に萎えないかと、こういう疑問が残るわけである。だからおれは去り、彼らも去る。彼らには去って向かった地点でもう一度、その距離をえがいてもらえればなお結構な具合である。


散文(批評随筆小説等) ギルド批評05/11/15 Copyright 黒川排除 (oldsoup) 2005-11-15 02:58:08
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