uminekoさん 「sky」に寄せて。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=48600
読者の心を揺り動かすだけなら、
技巧はいらない(もしくは技巧さえあればいい)。
あるいは、詩でなくてもいい。
さらに言えば、ポエジーすら必要ない。
この作品は言うまでもなく完成度としては低い場所にある。
商業詩誌の投稿欄に応募したなら、
確実に落とされるだろう。そういう作品だ。
たぶん自分が選者でも落とす(笑)。
けれども、それでも、これは秀逸な詩だと思っている。
詩の指標など、いくつあってもかまわないと思う。
完成度のみを求める必要もない。
ひとつの指標のみでその作品の良し悪しが決められるべくもなく、
ただ、その指標から見た場合、そぐわないというだけだ。
と同時に、
いくつもの指標があることに作者が甘えていると、
作品は死ぬ。死んでいく。腐っていく。
そういうことだと思う。
「詩とは何か」という命題に対する答えは、
自分自身が築くものであり、同時に、
自分自身が否定し続けなければならないと思っている。
個々人に基準があり、それは尊重されるべきで、
同時に、個々人はその自分の思う基準に甘えていてはいけない。
そういうものだと思う。
そして、蛇足として言うなら、
「それぞれに基準があること=何でもあり」ではないのだ。
何も考えずにそれを結びつける行為は、短絡的と言わざるを得ない。
「sky」。
Sep.11に衝撃を受け作品を残した詩人を何人も知っている。
自分もその一人だし、モチーフとした作品も書いたが、
否定的な見方をすれば、
残念ながらその多くは「テロの詩」の範疇に留まっている。
その悲惨さ、それを産んだ傲慢、戦争への恐怖、嫌悪、それを越えるための希望。などなど。
語弊を恐れずに言えば、反戦詩、平和のための詩など、誰にでも書ける。
表面さえなぞればそれで済むからだ。
真の反戦とは日々を美しく生きることだと誰かが言ったが、
美しく生きるには相応の覚悟が必要であり、
それに類するものが、「sky」には描かれている。と思う。――「テロの詩」を越えて。
あの出来事に、もしくはあの映像に、
実際に自分自身とどこまで接点を持つことができるか。
(あの出来事の)何が、(自分の中の)何とつながって、それをどう表すのか。
そこがちきんと見つめられている作品は、指標を越える。
そういう作品を、見落としてはいけないと思っている。
指標は大切だが、固執すると見失うものがある。
見失ってはいけないものを見失うことは、悲劇につながる。
あの日以後の、この世界のように。