〈芝居〉『明日』 青年座 2005/08/13
白糸雅樹

 ベートーヴェンのピアノソナタ第8番『悲愴』の第2楽章がピアノ三重奏によって奏でられるうちに、静かに下手にひとりの男が現われる。やがて上手からもひとりの女が現われる。そうして次々と現われた登場人物たちは、中央の衝立の前の一段高くなったところで互いに挨拶を始める。始めはパントマイムで、そして音楽が弱まっていくにつれて、最初はごくごくかすかな声で、それが不自然ではなく徐々に大きくなっていき、音楽がやんでからは普通に挨拶が観客にも聞き取れるようになる。パントマイムの時点から、互いの正座してのとてもとても丁寧なお辞儀や、そのうちのひとりが留袖であることから、それが婚礼での顔合わせであることが判る。(芝居のチラシなどにあらかじめ、長崎に原爆が起きる前日、婚礼が行なわれる家の話であることが書かれているので、観客はそれを念頭において見ることとなる。)

 婚礼の席には、花婿の母こそ留袖を着ているものの、花嫁は白いブラウスに紺のスカート、列席者はモンペなど、(花嫁の友人などは黄色のとても華やかな色で、晴れ着のモンペであることはうかがいしれるのだが。)戦時中のこととてけっして華美な婚礼ではない。後のほうの台詞で、花婿の両親がモーニングと留袖であったことが驚きと感心をもって語られるなど、細かいところで時代を描いている。

 婚礼からは脇役で花嫁の友人を聖女のように憧れる青年が、隣にその女性が座ったからといってそわそわしている様子や、その女性が実は父親に認められない子を身ごもっており相手の家(留守宅)を訪ねていって相手の母親に門前払いされる場面、また純朴に憧れのラヴレターを書くその青年がこそこそと女郎屋を訪ねていく場面での卑屈な様子など、登場人物のひとりひとりのキャラクターがそれぞれに描きだされていた。婚礼の席で、花婿の父がいちはやく酒が空になったとっくりを逆さに振って横倒しに置く場面がとてもさりげなくうっかりすると見逃すように演じられたかと思うと、しばらくして花嫁の父が自分の手元のとっくりを持って挨拶がてら注ぎに行くところ。祝辞のさなかにもともすれば最近の大空襲の話や広島に落ちた新爆弾のうわさになるところ。それはたしかに一種の「日常」なのだ。

 婚礼の日は、花嫁の姉が出産を控えており、その出産も演じられるが、「産みのくるしみ」というものがある意味、それだけではなく、戦争の終結というものにも重なるように思え、「原爆があったから早く戦争が終わった」などという理屈ではなく、正当化でもなく、そういう意見への批判でもなく、ただ一種のことがらとして描かれていた。

 見ていて、あまりにも人物像や展開が類型的な点が最初気になったが、冒頭の登場から一貫して様式美的な演技を感じさせていることとあいまって、それは欠点ではなく、登場人物たちを、特定の個人ではなく、一種普遍的な「人物像」として描くためかもしれないと思われた。

 といっても個性が書かれていないわけではない。人物の一面しか描かないで造形しているわけでもない。むしろ、婚礼祝辞のあまりに紋切り型な善意やおどけを目にすると、そのような類型でしか精確に描けないもの、に思いをはせずにはいられないのだ。

 彼らはけっして特殊な個性は持っていない。しかし、平凡な庶民であるということは、それぞれに利己的だったり、卑しかったりということからも無縁ではない。卑小な人間をそれぞれお人よしであるなりにあさましくも卑小に描写しており、だからこそ彼らが語る「明日」の予定がどのように翻弄されるかに観客は気持ちを揺すぶられる。

 登場人物のうちでは、花婿の父が特に巧く、とてもおもしろかった。知り合いの青年が出征するはなむけに元ホテルのコック長だった腕を振るってオムレツを作ろうと、卵をもらいに寄ったうちでのこと。翌日、死病の娘を訪ねて病院に行く時に持っていきたいからと自分たちにもオムレツと作ってくれと農家の夫婦に頼まれる場面は圧巻だった。オムレツは出来立てでなくてはおいしくないというのは当然で、最初そう言って断るのだが、かたちだけでもいいのだからと懇願されて、「明日の朝まではともかくそれから持っていくのではとてもとても」と断る。しかし、考えてもみてほしい。翌日の朝というのは、どう考えてもお腹を壊さない限度の時間であって、どう考えても元コックのプライドとしてはそんなに時間がたったものというのは普通譲歩できるものではない。それを譲歩してしまうのは、「かたちだけでも、宮さまのオムレツを作った人のオムレツを食べさせたい」という「かたちだけでも」くらいのことしかできない親のせつなさを察してしまうと、プライドなどはまったく存在しなくなってしまうからだろう。そして、その娘の為に作ることができない苦渋の表情と、「作り方を教えてくれ」と言われて、自分にしてやれることを見つけた時の嬉々とした様子。オムレツなどという、作り手によって全然味が違ってしまうものを、「宮さまのオムレツを作った人から直に教わったオムレツ」というだけでどんなに嬉しいかを、肌で判ってしまっているからだろう。

 この「明日」いう芝居の原作は井上光晴で、同じ原作で、黒木和雄が「Tomorrow」という映画を撮っている。私は予定では8/5まで岩波ホールで上演していたこの映画も見るつもりだった。出かけそびれて見逃して、それは悔しかったのだが、芝居を先に見て良かったと思っている。同じ原作でも、おそらく演出は対極と言ってもよいほど違うだろうと思い、そして多分映画を先に見てしまったら、この芝居の演出の良さは判らなかっただろうからだ。青年座の芝居では、何を描きたいかの主張や描写が非常に明確なのだが、好みということでいえば、私は黒木和雄の方が好きだろうと思えたからである。

『明日---- 一九四五年八月八日・長崎』青年座 2005/08/11〜13
 演出:鈴木完一郎 原作:井上光晴 出演:福田信昭、益富信孝、高橋幸子、他

                            2005/08/16


散文(批評随筆小説等) 〈芝居〉『明日』 青年座 2005/08/13 Copyright 白糸雅樹 2005-08-17 22:51:32
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