オレオレ率と吟醸度
佐々宝砂

考えてみたら・・・オレオレ率と吟醸度は相反するものなのかもしれず、オレオレ率と吟醸度をともに低くするなんてすごく難しいんではないか。実作者はオレオレ率がひじょーに高くてもかまわないと思うし、逆に純読者は吟醸度がめちゃくちゃ高くてもいい。つーか、吟醸度が高い方が、読者としては幸福ですばらしいことなのではないか。私はかつて、幸福な詩の純読者だった。読む詩読む詩みんなすごいと思い、感心し、のたうちまわって喜んでいた。詩に関してはさておき、私は今も小説に関しては幸せな純読者である。あえて言うが、「単純に幸せな純読者に過ぎない」のではない、単純に幸せな純読者がたくさんいるからこそ、小説業界は成り立つのだ。

詩の世界では、読者と作者とヒヒョーヤと編集の分業ができていない。別に完全に分業にしろとは思わんが、一所懸命な編集(このサイトで言や片野さん)や、幸せな読者(吟醸度の高い人)を貶めるような言動をみると、どーもいややなあと思う。ま、ヒヒョーヤは嫌われるのが相場なので、貶めてかまわん。それでも私はヒヒョーヤでありたい。

オレオレ率と吟醸度に問題があるとするならば、やはりそれは名称の問題に過ぎないのではないか。他人の作品をせっせせっせと読む義務は誰にもない。読者は好きに読むのだ。あるいは、好きだから読むのだ。義務で読んだらくそつまらん。作者もまた、好きに書くのだ。あるいは好きだから書くのだ。誰かへの義理で詩や批評を書くわけではない(私はけっこー義理で書いたりするがそれはそれ)。吟醸度という呼称の問題点は、「たくさん読んで少し選ぶ」という行為を、「たくさん読んでたくさん選ぶ」という行為よりもよいものだ(どういう意味でよいのかは不明)としたことにあるだろう。

私はたくさんの小説を読んだ。そしてたくさんの小説が大好きだ。それを恥じるつもりは毛頭ない。むしろ誇りたい。ってゆーか誇りまくりよ、自慢にしてるよ、わははのは。


散文(批評随筆小説等) オレオレ率と吟醸度 Copyright 佐々宝砂 2005-07-28 23:31:55
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