初物の桃
黒田康之

香気がどこからかぼくの指にしみこんできた
朝日はいつの間にか木陰を
ありありと作るくらいに大きく育って
父は病んだ体を褥に起こして
指先から瑞々しい桃の果汁を滴らせながら
桃の果肉を噛み砕いている
時々シャリシャリとも
カリカリともつかない音をさせて
背中を丸めて桃を噛んでいる
ぼくは自分がこの初夏の木陰であって
そうしてあの桃に照らされている
小さな現実であることを思い知らされる
こうしてまた夏が来て
日差しはいつにもまして暑いのだけれど
父とははるかに違う回数の夏を
この桃の香気によって
微かにではあるがおぎなって
ぼくは父と同じ地平に立つ

父ははあはあと呼気を荒くして
あの桃を今食べ終えようとしている
この指の香気はおそらく今日この一日ぼくの指にあって
ぼくを父とは違う褥に眠らせ
今日も現実も静かに眠らせるのだろう

夏の日差しは木陰を大きく作って
やがて南中する
そのときぼくはこのひと時を忘れて
生きているのだろうけれども
指先に潜め香気よ
違う現実を生きるぼくらを
違う褥に眠るぼくらを
汗ばんだまま
静かに眠らせるこの
鮮やかな夜が来るまで

どこまでも深く鮮やかに
ぼくとこの現実の寝息の中に
緩やかにあの太陽が沈んでいくまで
ああ
桃の香気よ
この指に潜め


自由詩 初物の桃 Copyright 黒田康之 2005-07-23 01:44:28
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