箪笥の上に置き去りにされた道化人形は、誰にも気づかれぬまま、長い時をひとりで過ごしていました。
笑ったままの顔は色あせ、細いひびが頬を走り、衣装の金の刺繍は煤けています。
かつてこの笑みを愛した人の名も、もう誰の記憶にも残っていません。
夜、部屋の静けさが満ちるころ、人形は窓の外に昇る月を見つめました。
淡い光は、ひび割れた頬に触れ、冷たく固くなった胸をそっとあたためました。
月光は、胸の奥に小さな期待を描き、ひとときの慰めを届けます。
昼間、人形に近づくのは、小さな生きものばかり。
蠅は鏡台にとまり、油虫は影のように這い回り、鳥たちは窓枠でおしゃべりに夢中です。
だれも人形に目を留めません。
それでも、人形は静かに回り、逆立ちを続けました。
蠅が羽を休めにきた日、人形は弧を描き、後ろ回りを披露しました。
――今日を生きるだれかの心が、ほんの一瞬でも軽くなるなら。
鳩が窓に止まったとき、人形は片手逆立ちをしてみせました。
鳩は首をかしげ、そっと囁きます。
「ねえ、君。その力を、空を飛ぶことに使ってみない?」
けれど人形は、ただその場で舞い続けていました。
ある夜、月はいつもより大きく明るく、窓いっぱいに満ちていました。
人形は、光の中を後ろ回り、逆立ちし、細く揺れる影と、月光に身をゆだねます。
光は胸の奥に染み込み、遠い記憶を呼び覚まします。
サーカス小屋の熱気、渦のような笑い、まばゆい「ありがとう」の瞳たち。
人形はそっと後ろ回りをし、月を見つめながら逆立ちしました。
だれもいない部屋。月だけが、しっかりと見つめています。
パチ、パチ、パチ……
やわらかな拍手が夜の底にひびきました。お月さまの拍手です。
胸がふるえ、声が震えます。
「紳士淑女のみなさま――ようこそ、たったひとりの観客さまへ。
今宵は、涙を笑いに変える道化師が、心をこめて芸をお見せいたします。」
光と影の中で舞うたび、月は惜しみなく拍手を送り続けました。
世界の端でひっそりと行われる、小さな、しかし胸に響く祝祭。
月光が細くなり、窓の端へと移ると、人形は焦って回り、逆立ちを続けました。
そして――
ガタン!
箪笥の上から落ち、腕が外れ、首が落ち、体は砕け散りました。
けれど、その顔には、穏やかな笑みが残っていました。
月に向かって、「ありがとう」と伝えられたからです。
淡い光は、人形の破片ひとつひとつに触れ、世界のどこかで耐える心へそっと届きます。
優しさは、消えない。
静かな愛は、証拠を必要としない。
誰かを思い続けた気持ちは、夜の底で光り続ける――。
その光だけが、砕けた道化人形のそばに、永遠のように残されていました。
※原作「道化人形」を修正しました
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