人妻温泉旅館
atsuchan69
入り江にて
大阪から車を走らせ、片道三時間。途中のサービスエリアでスマホを確認すると、通知に追われる日常がそこにあった。
やがて夜が明け、寂れた港町を抜けると、道は雑木林と露出した山肌に挟まれるように狭まってゆく。舗装はところどころ剥がれ、冬の潮風に洗われたガードレールは白く錆びていた。私は車を港の空き地に停め、竿とクーラーボックスを担いでしばらく歩く。海の匂いが胸を満たし、都会での息苦しさが少しずつ遠ざかってゆく。
目指すのは、小さな入り江だった。防波堤もなく、岩場がそのまま海に落ち込んでいる。ここでは四季を通じて魚影が濃い。春はメバル、夏はアジ、秋にはカワハギ、冬はグレやイガミが釣れる。私はその日も、短い休日を逃さぬようにここまでやってきたのだ。
糸を垂らすと、しばらくして竿先が小さく震えた。銀色の体が水面で跳ね、私は思わず笑みをこぼす。魚を釣り上げるたび、都会の喧騒から遠ざかるような感覚があった。
夕暮れが迫るころ、背後から小さな声がした。振り返ると、買い物袋を抱えた少女が風に煽られ、坂道を登れずに立ち往生している。まだ十歳に満たないように見える。私は思わず声をかけ、荷物を持ってやった。
少女は礼を言うと、「かあちゃんのところまで」と私を案内した。歩いた先に現れたのは、海辺の一軒家だった。灰褐色の雑木林とむき出しの山肌に囲まれ、庭には寒椿が咲いている。
戸口に立つ女は、黒髪を後ろでまとめ、簡素な割烹着を身につけていた。私を見ると一瞬警戒の色を浮かべたが、娘が「このおじさんに助けてもろうたんや」と言うと、頬を緩めた。
「どうぞ中へ。せめてお茶くらい」
その声に導かれるように、私は家の中へ足を踏み入れた。潮の匂いと畳の香りが交じり合い、外の冬風とは別世界のぬくもりがあった。
ふたりと一人
居間に通されると、囲炉裏の火が静かに燃えていた。鍋の中で味噌汁が湯気を立て、海藻の匂いが鼻をくすぐる。女は私に湯飲みを差し出した。
「漁師町ですから、昔は知らない人を泊めることもありました。……でも、いまはそういう風習もすっかりなくなってしまって」
言いかけて、女は小さく首を振った。
娘は土間でバッカン(バケツ)を覗き込み、釣れたばかりのアジに目を丸くした。
「わぁ、たくさん釣れたんやなあ」
彼女はしゃがみ込み、じっと魚を眺めた。女が笑いながら「勝手にいじったらダメやで」と声をかける。その笑顔に、私はふと胸を打たれた。
彼女の名は遥、娘は七海といった。夫は遠洋漁業に出ているらしいが、もう何年も戻らないのだという。だが、言葉少なに語る様子から、それ以上を聞き出すのはためらわれた。
夕餉を共にしたあと、私は辞去しようとした。だが女は、「せっかくやし、ゆっくりしていってください」と言った。二日の休みをもらって大阪からクルマで来たことを話すと、「港に停めてはるんですね。……それなら、なおさら、夜道は危ないですから」と微笑んだ。
その夜、私は客間に布団を敷いてもらい、波の音を聞きながら眠りについた。薄い襖の向こうに、人の気配があった。やがて夢の波間に、柔らかな乳房と唇が浮かんでは沈み、まぶたの裏に残り続けた。
釣りと記憶
それから、私は月に一度か二度、車を走らせてあの入り江を訪れるようになった。釣りが表向きの理由だが、本当は彼女と娘に会いたかったのだ。
春にはメバルが群れを成し、夏は陽射しの下でアジが光を散らす。秋はカワハギの肝を肴に酒を酌み交わし、冬は火鉢に手をかざしながら、グレの刺身や魚すき鍋を囲んだ。季節ごとの魚が、私たちを自然に結びつけていった。
遥は庭に洗濯物を干し、七海はその足もとで地面に絵を描いた。私は釣果を見せては娘に自慢し、彼女は歓声をあげた。港町の市場に立ち寄ると、乾物屋の老人が「また来たんかい。あんた、あの家に世話になっとるんやろが」と冗談めかして笑った。
都会に戻れば、賑わう雑踏と忙しい日々が待っていた。書類と締め切りに追われる日常。けれどもふと、車のトランクに眠る竿と道具箱に触れるたび、私は心の中で次の訪れを数えていた。
崩れゆく日常
大阪の暮らしは、単調だった。会社の窓から見える御堂筋、電車の中では押し合う人波。人に囲まれながらも、私は孤独だった。
そんな日々の中で、海辺の一軒家だけが私の逃げ場になっていった。月に一度、あるいは二度、車を走らせて港へ向かう。高速道路を降りるときには、胸の奥の鎖がひとつ外れるように感じた。
だが、心地よさの裏には後ろめたさもあった。泊まるたびに私は「宿代のつもりです」と封筒に紙幣を二枚入れて渡した。遥は、「そんな……お金なんかいらへんのに」と首を振るが、私は無理に手渡した。そうでもしなければ、自分の立場を保てないように思えたのだ。
ある晩、囲炉裏端で二人きりになった。七海はもう眠っていた。火の明かりが遥の頬を赤く染め、彼女の影が畳に揺れた。
「そやけど、どうしてこんなところに通うてくるんやろね」
問いかけは静かだった。私は答えに窮した。釣りが好きだから、と言えば嘘になる。あなたに会いたいから、と言えばすべてが崩れる。
私はただ、黙って杯を傾けた。
冬の旅館
十二月、海は荒れていた。北風に押され、白波が岩を叩く。車を降りると指先がかじかみ、頬が痛んだ。私は坂を登りながら、あの家の灯りを探した。
戸口に立った遥は、厚い毛糸のショールを肩にかけていた。
「寒かったでしょ。お風呂、沸かしてありますから」
案内された浴室は、石を組んだ湯船に湯気が立ちのぼっていた。木桶風呂の湯は森の香りが漂っている。私は肩まで浸かり、深いため息をついた。まるで小さな温泉旅館のようだと心の中でつぶやいた。
食卓には、イガミの煮付けと、七海が握った不格好なおにぎりが並んでいた。私はそれを頬張りながら、胸の奥が熱くなるのを覚えた。血のつながりはなくとも、ここには確かに家族の温もりがあった。
別れ
年の瀬が近づき、入り江は冬の灰色に沈んでいた。海は低く、波の音だけが響く。私は車を港に停め、竿と道具箱を担いで浜を歩いた。釣果はわずかで、空の冷たさが身に沁みる。
家に戻ると、遥は表情を硬くしていた。七海は炬燵で絵本をめくり、ちらりと私を見るだけだった。
「町から人が来て……昔の噂を確かめに来たの」
声をひそめて言う彼女の目には、疲労と迷いが混じっていた。
噂は夫のこと、そして私の出入りを含め、村の人々が密かにささやくものだった。私はわずかに身を震わせ、しかし何も言わなかった。
夜、布団に並ぶと、隣に眠るべき人の顔を思い出そうとしても、霞んでゆくばかりだった。彼女の身体は私から少し離れていた。彩は眠り、無垢な世界に沈む。
「……わたしはこれからも、娘とただ静かに暮らしたい」
囁くような言葉に、私は手を伸ばすことをやめた。
翌朝、庭の寒椿が霜に濡れて赤く光っていた。私は財布から二枚の札を取り出す。
「帰るから」
遥は受け取ろうとせず、微かに首を振った。だが私は無理に握らせた。それが、旅館に泊まる客としての儀式のように思えたからだ。
坂道を下り、車に乗り込む。エンジン音が庭に残る二人の姿を遠ざける。波の音が耳に残り、私の胸は重く、しかしどこか清らかだった。
記憶の褥
街に戻ると、高層ビルの群れと雑踏が私を包む。書類と時計に追われる日々。けれども、海辺の家の記憶は色褪せず、車のトランクに眠る釣り道具に触れるたび甦る。
夜、布団に横たわると、障子越しに差し込む月光、波の低い音、遥の笑顔、七海の小さな手の感触が胸に残る。すべては夢と現実の境界にあるようで、記憶の褥として私を包んでいる。
誰にも言えない、心の奥に秘めた名前と場所。
海辺の一軒家は、もはや幻かもしれない。しかしその温もりだけは確かに、私の中で息づき続けている。
夜の港に静かに波音が響く。
私は車のハンドルに手を置き、胸に秘めた名前をそっとつぶやいた。