問わず語り(5)
降墨睨白島(furusumi geihakutou)
詩を書くにあたって何のために書くかということは色々な部分で詩作品を左右すると思う。
そもそも、誰かに何かを訴えたいとか、読み手ありきでの詩作とそうでない詩作に分けることが出来ると考える。
前者の代表的なものは商業ベースに乗るもの、または歌詞(広い意味で詩とするならば)があり、後者は芸術・文学作品としての詩ではないだろうか。
私は常に詩を書く際には読み手をあまり考えない。一方的な自己表現、または一方的な美的表現やその他もろもろの一方的な表現が芸術であり、芸術としての詩であると思っている。なので、誰かが読んでこうしたほうがいいと言われたり、この作品は何とか的ですねと言われても全くぴんと来ない。他者と作品を通じて交流を図ろうという気がないからだ。ただ、今般は、それでは自分本位になってしまい、作品や詩を書く技術が手垢にまみれてよくないと思いいたり投稿サイトに参加している。
そこで、キャッチーといわれると、そうかと思った。
ただ、自分自身意図してキャッチーな語句を選んだつもりはないし、人をあえてひきつけようという気持ちもなく、逆に自分の中にある思いを一方的に酔って書いたような感じなのですごく不思議だった。それでも他者の意見として受け入れて今後の詩作の参考にしたいと思った。
また、ついでに推敲について。推敲もほとんどしないのが自分のスタイルで、そのせいで誤字脱字多く読み手には不快感を与える。
なので最低限の見直しというのは必要だと思うのだが、こここはこうじゃないなとか、ここをこうしよう、同じ言葉が繰り返し出てるので言い直そうとかは思えない。それは誰に対して、或いは自分の中のどういう自分に対しての作業なのかというのが私には分かりづらい。
思い切って書いたら、多少は変でもその時の思い(ポエジー)をそのまま正直に呈示しようじゃないかと思ってしまうのである。雑で荒っぽいかもしれないが、まずはそういうスタイルであることは間違いない。ただ、それをそもそも売りにするとか、計算するとかという意図は毛頭ないので、色々な意見を聞かせてもらながら、詩を書く技術を向上させていきたいと思った。
今後とも様々な意見を承りたい。