砂の城の考察 #1
まーつん
何かの考えを、紙に起こそうとすると、そもそも、何を考えていたのかが分らなくなってしまう。そんなことはないだろうか。
それは、砂浜に盛り上げた砂の城を、テーブルに移そうとするようなものだ。手に掬う端から、苦心して押し固めた城壁や尖塔が、ただのさらさらとした砂に広がってしまい、容易く原型を手放す(あるいは、無形という原型を取り戻す、といってもいい)。
そもそも砂粒は、互いに引き寄せあって何かの形を形成する性質など持ってはいない。すべての物質には引き寄せあう性質があるとしても、砂粒ほど微細な存在がその自重を持ち上げるほどの引力は持ち合わせていない。だが、風や水に掃き集められ、どこかの波打ち際で、無垢で幼い手によって、何らかの形に押し固められることはある。同じように、何らかの思考というのもまた、精神という、無数の粒子の集合体が、一時的に形成した形の一つに過ぎないのかもしれない。
もしもすべての言葉が、それを話す者の心を模した不完全なイミテーションだとしたら、全ての話者はうそつきだ、ということになる。だがそれは、話し手が不誠実なのではなく、ただただ、言葉というメディアの持つ不完全さと、思考という存在が持つ不確かさに起因している。言葉が指なら、思考や概念は、形を保てない砂の集まりに等しい。星やハートの形をした塊を救い上げようとすると、さらさらと指の間を零れ落ちていく砂。
ならば、話者はある概念や思考の創造者であると同時に、贋作者でもある。「真作」は、あくまでも話者の心の中にあり、「贋作」は原稿や本のような物体に刻まれた文字の連なりだ。さらに、一つの言葉やセンテンスを巡っても、個々の読者でその解釈に微妙なずれがあるとすれば、ある情報を、その形を変えずに誰かの記憶に転写することなど不可能だということになる。