ずっと好きでいられますよう
由比良 倖

 例えば「ヒマワリが咲いていた」と書く。でもヒマワリは今も咲いているだろうか? ヒマワリという花はそもそも明日にも存在するだろうか? そんなことが不安だった。

 あるときから、今この瞬間だけ美しければいいと思うようになった。例え明日世界が、今日とは全く違う世界になっていたとしても。明日なんか来なくても。
 人が人形にしか見えなかった。それなら人形を愛そうと思った。嘘でも何でもいいのだと思った。意味もなく綺麗なら、それで。

 昔、ソードアートオンラインというアニメを見ていたときに、全てが仮想現実の世界の中で、主人公のキリトが草原に寝転びながら、ヒロインのアスナに「今日は空が綺麗だ。風も気持ちいい」ということを言っていて、アスナが「あれは全部作りものだよ」と言うと、「でも、気持ちいいじゃないか」と言うシーンがたしかあったと思う。
 そういう感じが僕はとても好きで、全部嘘でも、作りものでも、何でもありで書き換え可能でも、今美しいと感じている自分自身は、嘘じゃない。世界に何かが足りなくても、欠落感や、その何かを求める気持ちは嘘じゃないし、世界が空っぽでも、空っぽが綺麗ならそれでいい。

 実感って「我思う、故に我あり」に近くて、でももっと「僕が思っている」ということを深く感じている自分がいて、それは「我思う」を客観視している自分の視点でありながら、多分もっと深い主観なんだ。

 僕は「今ある世界は嘘かもしれないけど……」という括弧付きで世界を見ているけれど、多分僕が中原中也の詩に感動するのも、それでなのかなと思う。他の詩人は「私はこういうことに感動するけれど、あなたもそうでしょう?」という、人はそれぞれ同じようなもので、同じような世界に住んでいる、という前提というか、甘えのような感情を持っていると思う。

 中也は世界なんて分かってない。分かるものじゃないと思っている。でも僕はこういうものに感動する、と書いて、それで終わりだ。共感を得られるかどうかは、もう投げ出しているというか、共感されるかどうかは賭けで、でも何かが伝わることを願っている。そういうあり方に、僕はとても感動する。

 小林秀雄はそういう中也の詩について、「日本人的な、日本人らしい詩を書いた」ということを書いているけれど、多分小林秀雄には中也のことが分からない。小林秀雄にとっては世界があることは当たり前で、生活的な文脈の中で十分生きられていて、彼は言ってみれば常識的な世界をどこまでも深めて行った人だと思うから。

 でも、中也は小林秀雄について「世間知に長けた人」と書きながら、やっぱり認めている。生きている実感の深さは、小林秀雄も中也も同じで、本気で生きているのも同じで、ただ中也の方が、世間的な世界とは全く違う世界に住んでいるという危うさを抱えているだけだと思う。世界全体を相手にしていて、それでも常識には勝てないというジレンマに悩んでいて、悲しいときには悲しいと書いて、嬉しいときには嬉しいだけでいいんだけど、でもそれだけでは足りなくて、やっぱりひどく愛に飢えている。

 ニール・ヤングがジョン・レノンについて「彼は真実しか歌わなかった」と言っているけれど、中也も同じだと思う。

 ……それに比べると、僕はもう生活に負けていて、生活の中で少し得するような、人に媚びた言葉だけを、つまり嘘だけを並べている、堕落した人間だ。どうしようもなく世間的な不安に引きずられている。
 そして中也の詩を読むたびに、もう中也の詩だけあればいいじゃないか、僕なんていなくても、と思う。ニック・ドレイクの音楽を聴いたときも同じだ。本当、僕なんていなくてもいいと思う。

(生きることの現実的な苦しさについて書いていたけれど、文脈からずれるので削除した。)

 まあ、それはともかくとして、僕は生きるなら、花の名前とかハーブの名前とか、それを外国語で何と言うかとか、そういうあまりどうでもいいようなことを知りたいと思っている。明日には消えてしまうような、儚い世界の細部。

 それからもっと夢見がちなことを書くならば、結局生きるって、物だとか、趣味だとか、抽象的な世界観や知識だとか、幸福になる方法だとか、そういう漠然としたこととはあまり関係ないと、最近は強く思っている。そうじゃなくて、具体的に自分が何に惹かれ、何を好きかに、人生の意味は掛かっているんだって。

 老子や荘子が言うように、世界には本当は名前がなく、全ては一様にたったひとつのものなんだ、というのは、あまりにも当然のことで、それは既に僕の世界観の底に、でんとある感じだ。禅が同じように、物ものには区別がなく、全ては有るようで無く、本当は無いのだけど有るように感じるだけだと言うのも、常識の範疇だし、空海が全ては言葉(真言)だと言ったのも、それはそうだろう、と思う。

 本居宣長が、そういう中国や仏教の教えを真っ向から毛嫌いして、全てが「物のあわれ」だ、と言ったのには、なかなか一蹴出来ない一種の可愛らしさを感じる。何故なら、宣長は概念的なことからは何も言わず、山桜があまりに好き過ぎるので、こんなにも美しいものがある世界を、混沌思想だとか、無だとか有だとか言うのは、あまりにも馬鹿らしい、という実感からしか何ひとつ説いていないと思うからだ。

 彼は病気になったときだったか、年がら年中、山桜が好き、という短歌ばかり書いていたらしいし、遺書には、墓はもう粗末でいいから、山桜だけは綺麗なのを植えてくれ、と書いていたらしい。「好きだ」というところからしか何も言っていない。「好き」には理屈なんて無い。

 宣長は「しきしまの大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」という有名な歌を残しているけれど、大和心というのはもともと理知だとか武士道だとか、男らしい観念とは真逆の言葉で、(理屈とは違う)柔らかな感情や、繊細な感性のことを言った、主に平安時代の女性、紫式部や赤染衛門などが使った言葉らしい。「男はああも出世だとか勉強だとか言うけれど、もっと大事なのは心の機微や優しさなのだ」というのを、大和の心、という言葉で表していたそうだ。

 だから先ほどの「しきしまの……」は、おそらく、偉そうで概念的な学説への反抗心も含みながら、大事なのはこういう、山桜が朝日の中にぱーっと咲いている、言葉ではとても説明出来ない、しかし何とも惹かれる、心から離れることのない、この感じだけなんだ、というすごくストレートな感慨を書いていると思う。

 全くもって理知的でも論理的でもない、単純な感動からスタートしていて、物に深く感じること、感動することが全てだ、というあまりにも単純なことしか説かなかった宣長の「物のあわれ」論は、世界の真理ではないかもしれないけれど、でも人生の真理ではある。だって、何も愛することの出来ない人生は、本当に空っぽだから。

 はっと感じること、じっくり感じること、よくよく付き合い、よく考えて、ようやく分かると感じること、要するには全てを深く感じようと意識しながら生きていくということ、それが生きるということなんだ、という宣長の信念は、とても正しい。

 世界は無だとか、全ては本当は繋がっているとか、世界は組み合わせだけなんだとか、自分なんてものは無いとか、全ては夢のようなものだ、世界はもっと高い次元に存在している、などなどの概念的な言葉を、時間をかけて実感したって仕方ないと思う。無駄だとまでは言えないけど。

 例えば「人とはこういうものだ」ということが粗方分かったとしても、ひとりひとりの人間はまるで違う。少し付き合って、話して「あなたはこういう人だ」とか、「君は辛そうだけど、自分に拘っているから辛いのであって、もっと視野を広げて見れば、辛さなんて無いことが分かるはずだよ」とか、上から目線のことは言えるとしても、人の個性はそう簡単に分かるものじゃない。その人といい加減長く付き合って、その人独特の個性や魅力を知ることが「物のあわれ」だと思う。

 仮に本当に「誰もが絶対に幸せになれる方法」というものがあったとして、それをすっぽり当て嵌めていけば誰もが幸せになれるほど、人間は単純ではない。ひとりひとりが、ただ不幸ではないというだけの、消極的な幸せを得るのではなく、個人的に、主体的に世界を好きになるのでなければ、幸せという言葉は、無感覚とか不感症だとか、不幸な自分の忘却だとか、一面的な多幸感だとか、つまりはただの個人性の喪失という意味でしかなくなる。

 人はいろんなものに惹かれる。惹かれるから生きられるんだ。幸せは、ひとりひとりが自分で見付けるしかない。それが多難であっても、あらゆる理屈や概念を超えて、これこそが自分の感情だという疑いようのない何かに到達すること。結局はそれが、一番幸せなことなんじゃないかと思う。

 ただ楽になることではなくて、いろいろなものを直感的に、あるいはとても時間を掛けて知ること、好きになること、焦らずに、深く感じて、知ろうと意識し続けること。簡単に結論を出さないこと。多分、それが人生では一番大事なことだと思う。それはそして、自分を知ることにも密接に関係している。

 何ごとも自分なりにしか知れないのだから、知ることには全て個性が関わっている。「物のあわれ」論っていうのは、世界を知り、自分を知り、そして満ち足りて生きる為の、ひとつのスタンスを表明していると思うし、そしてそのスタンスは、自分が理屈や言葉抜きで好きな、具体的な何かの上に成り立っている。もし何も好きになれないなら、世界の強度は想像力の強さに拠っていることを思い出せばいいと思う。信仰心でも、物分かりの良さでもなく。すごく想像すること。それが好きになるたったひとつの方法だと思う。

 泣きたい直前の震えが続くのが好きだし、笑うより苦しいくらいの気持ち良さが好きだ。皐月 恵さんとあきまさんと米山舞さんのイラストが好きすぎて、溢れそうな何かが身体の中で暴れ出すような瞬間を切り取ったようなその彩度が、僕を死なんて関係無い場所に連れて行ってくれる。あとはJohn Hathwayさんの、涙が鋭角なカラフルさを持ち得たみたいな、エモーショナルな可愛さと格好良さ。イリヤ・クブシノブさんの色使いの甘やかさも好きだ。
 ……と、二週間くらい前に書いて、消したのだけど、残っていたから、持ち出してきた。

 オレンジ色、切り裂かれた明度、心が掠れ切ってしまうような加速度、音楽はミュージシャンからの個人的な手紙だからいいよね。息をしているだけで呼吸が特別なものになる。漆黒のウォークマンにSONYのヘッドホン、錆びた銅色のケーブル。万人向けのプロダクトが「僕の為の」ものになるって素敵だ。僕の脳を「暗さ」が侵食していく。プラグに繋がれたヘッドホンは、どこか遠く隔たった場所から通信された、個人的な音が鳴るようで、Bluetoothより好き、今のところは。酸っぱい音や、生温い音。
 ……これも二週間前に書いたこと。

 ……今の文章に戻る。ちょっと暗くなる。ここからは少し、また病気について。

 孤独や絶望は僕からあらゆるものを奪った。でも、絶望を抜け出すと、人生はさらに美しく豊かになると思う。多くの人が、自分の絶望は人には絶対に分からない、と言う。僕もまさにそんな気持ちだった。まあ、僕くらい恐ろしく苦しんだ人もいないだろう、って。でも今は、この瞬間にも現在進行形で、世界が崩壊するくらいの苦しみを味わっている人がいる、と思う。当人にしてみれば、世界の終わりよりずっと決定的な、致命的な精神的ダメージを受けている人がいるはず。

 絶望は僕から、何より好きだった言葉と音楽さえ完全に奪ってしまった。絶望といっても、僕の場合は、きっかけがあったのやら無かったのやら、多分、体質的な鬱が僕を完膚なきまでに討ち滅ぼしにきただけだけだと思うんだけど。

 離人症と鬱にだけはならない方がいい。何故ならその苦しみを表す言葉がほぼ皆無だからだ。現実が現実に見えないと言ったって、死にたいとしか思えないと言ったって、大抵の人は朧気にだけ想像して、そんなものか、と思うくらいなものだと思う。なってみなければ、僕がどれだけ、健康な世界からかけ離れた場所にいたか、誰も分からない。でもそんなの、分からない方がいい。

 僕だって、統合失調症の苦しみはあまり分からない。鬱がひどいときに幻覚や幻聴にも悩まされたけど、本当に統合失調症に苦しんでいる人は、多分もう世界全体が幻覚と妄想に満たされていて、当たり前の現実に戻る方法がまるで無いんじゃないかと思う。

 しかも統合失調症の人は、幻覚と妄想を、真実だと思い込むことからも抜けられないらしい。たったひとり四六時中、狂った、多分悪意に満ちた世界の中で過ごす恐ろしさは、それもまた言葉には出来ないだろうし、しかも言葉にしたらしたで、さらに狂ってると思われて周りの人たちもどんどん離れていってしまう。

 僕は、祖母が典型的な統合失調症だったから、その苦しみは分からないにしても、病気だというのにしかも周りから疎まれてばかりの様子は見てきた。最初は悪の組織に追われていると、何度も警察に訴える程度だったのが、最後の方は電波か悪霊だったか生き霊だかの思念がやって来ると言って、布団の周りにいろんなものでバリケードを築いて寝ていたけれど、天井裏からも念波みたいなのが送られてくるし、バリケードなんか擦り抜けて悪いものが身体中を這いずり回ると言って、いつも手で身体に付いた何かを払いのける動作をしていた。

 ひとりきりで悪意に襲われ続け、一睡も出来ない夜が、どんなに恐ろしいものであったか、僕には想像も付かない。その祖母も今はすっかり呆けて、にこにこしているんだけど。完全に認知症が進行する直前まで、祖母は常に何かに襲われていた。しかも、病気ではなくて、本当のことなんだと言って、投薬をずっと拒否していた。

 僕もそうだったんだけど、病気のときって、「趣味を持って、人生を楽しく」なんてレベルとはかけ離れた世界にいるんだよね。

 僕は何年かの間、音楽からも言葉からも、何ひとつ感じなかった。音楽と言葉という最大で唯一の逃げ場を失って、僕は生きる場所を失っていた。死ぬ気力さえ無く、生きる気もなく、歯も一回も磨かず、働かない胃にものを入れると部屋で吐いてしまい、嘔吐の跡も何年もそのままで、痩せて、頭の中の言葉は「死にたい」だけだったから、当然言語力もまるで無くなって、ときどき少しましになるとすぐに自殺を試み、腕を切り、コーラとウォッカを混ぜたもので薬を飲むのを主食にして、あとはただ自分が死ぬことだけを願っていた。

 でもまあ、僕の中の生きたい気持ちというか生命力は、よほどタフなんだろう。苦しんで苦しんで、でも傍目から見ればただ毎日一日中ごろごろしている内に、空元気だけはまず取り戻し、あるときからびっくりするくらい音楽を聴くのが楽しくなってきて、本も読めるし、まだ全然言語力が回復していないとは言え、でも少しは書きたいという気持ちも戻ってきたし、ギターを弾くことの麗しい時間は、鬱になる前よりも美しいくらいだ。歌うのも好き。

 未だに死にたくなるのは、鬱の重さがときどき僕を苛むからだけど、その鬱も死にたい衝動を数日我慢すればまた穏やかになる程度のもので、今年初めに自殺未遂して死にかけたとは言え、それもあくまで一時的な苦しみから逃れる術が他に無かっただけのことだと思う。とにかく長くても二十日死ぬのを我慢すれば、今はまた生きたくなる。

 二十日って、永遠みたいに長いんだけれど、今は音楽と言葉があれば、ある程度耐えられる。一昨日くらいまで、やはり二十日間ほど、いい加減死のうと思って、何度致死量の薬を口に放り込みかけたか分からないんだけど、でも音楽を聴いてると気持ちは音楽に溶け込めるし、短歌や詩を、すごく暗鬱な気持ちのままでではあるけれど書いていて、書いている間は、死にたさを少し忘れられるし、おまけに本も読めた。

 本は大好きなイメージの、秘やかな宝箱だよね。一冊の本は無限に複雑な、宝物だらけの迷宮。ノートは美しい色とりどりの糸、言葉の糸を仕舞った、静かな裁縫箱のよう……「裁縫箱」という言葉は、魚住陽子さんの本の言葉からそのまま採ったものなのだけど。

 最近僕は自分の手書きのノートがとても好きだ。唐突みたいだけど、魚住陽子さんのその「裁縫箱」のくだりを、そのまま引用すると、

「物持ちのいい女が、気に入った布やリボン、きれいなボタンなどを捨てられずに手近にある裁縫箱に詰め込むように、私は夢の印象や記憶、細々とした発見などをこの日記帳に無造作に溜め込んでいたらしい。
 幼少時の宝物というのは長じて開けてみると、懐かしくはあっても格別光らない石だったり、色のあせた蝶の羽だったりすることが多いけれど、始末屋の女性の裁縫箱には、おびただしい糸屑のなかにまだ使えそうなものが存外残っていると、ひとりでほくそえむことも多いのである」

 と、その通りだなあと思う。今の僕のノートには荒削りな、磨かれる前の言葉や、もうほんの少しで花開く言葉に満ちている。ノートには風のように舞い込むイメージを、がさがさと走り書きしたり、ちょっとした情景や心の景色を記した短文が散りばめられている。ちょっと前までは冗談抜きで「死にたい」とかしか書いていなかったんだけれど。

 長年A5のノートを使っていたけれど、今はB5のノートの真っ白な広さに、がしがしと自由に万年筆でうっとりするような筆跡で、出てくる言葉をペン先で紡いでいる。

 魚住さんは全然、気の毒なくらい売れてない作家だ。僕は彼女の本を七冊持っているけど、全て文庫本では出ていないどころか、僕が持っているのも全部初版第一刷で、多分一度も増刷されていないと思う。何冊かは絶版の本を中古で買ったし、中古でさえ手に入らない本も、あと何冊かある。

 そして魚住さんは三年前に亡くなった。何故、立派な、美しい文章を書く作家が、こんなにも埋もれたみたいになっているのか分からない。でも確実に再評価されると思う。僕は魚住さんを、小川洋子さんの編纂した短編アンソロジーで知った。『雨の中で最初に濡れる』という短編が載っていて、タイトルだけでもう、絶対好きになるだろうと思った。

 もし、僕に発言力があったらどんなにいいだろう。……魚住さんの最初の作品集は、かなり珍しいことに活版印刷で、僕もいずれ自分の本を出せるとしたら(あるいは自分で作るとしたら)、活版印刷にしたいなあと思っている。一文字一文字が大事にされているという感じがあるからだ。活版印刷は、大昔に石盤に刻まれて今は風化しかけた文字のような、謎めいた感じがする。一冊の本には、情報を超えた魅力が詰まっている。詩集や小説や、画集……。

 僕は苦しみながらも生きていくんだろう。想像力に囲まれて。紆余曲折したこの文章だけど、結論としては、最初から書いている通り、理由も無くただ好きなものは好きなんだ、という気持ちを大事にしたい、というそれだけのこと。それは、抽象的な真理に走りがちな僕自身に対する戒めでもある。

 ここまで、長い文章を読んでくださった方には、感謝しかありません。どうか、あなたにも世界の美しさが訪れますよう。個別で具体的なものごとを愛せますよう。特定の誰かを愛せますよう。そして叶うならば、特定の誰かに愛されますよう。ふたりでささやかなことを喜び合って、くすくす笑えるような時間は、この世で最も得がたく、最も素晴らしいものだと思うから。

 また書きます。僕は疲れたので眠ります。いい夢が見られなくても、眠ることはまた新しく世界を愛する為に不可欠なものだから。おやすみなさい。


散文(批評随筆小説等) ずっと好きでいられますよう Copyright 由比良 倖 2024-10-10 09:48:13
notebook Home 戻る