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顔をあげるともっと広い世界があって、もっと広い世界でまた顔をあげると
もっともっと広い世界があって、どこまでも広くてたまんないね、という妄想
が僕はなかなか好きだ。でもこの、もっともっとの限界は当然のようにあって
それは妄想の限界なのだけど、この限界に辿り着くまでをどこまで細かく割れ
るかというのに一生懸命だ僕の妄想は。終着点はわかっている。自分の妄想の
限界というはこれまでに何度も辿り着いた場所であり、そのたびにああ終わっ
てしまったとがっくりして、トランプの一人遊びのようにカードをくしゃっと
混ぜてもう一回やり直す。今度はもっと楽しめますようにと。
この妄想の出発点がいきなりアメリカなんかだったりするとすぐに限界に達し
てしまうので注意だ。世界の範囲が大きくなればなるほど限界への加速度は急
激に上がってしまう。逆に微粒子のブラウン運動から始めるのもダメだ。物理
学者なら持ちこたえるかもしれないが一般人には耐えられない。飽きて何十段
も階段をすっとばしてしまうことだろう。まぁ焼き肉定食くらいから始めるの
がコツだ。
「ブブンヤキソバ」という作品もスタートはヤキソバ。うむ、なかなか筋がよ
ろしい。「ミクロからマクロへ、っていうとちょっとかっこいいだろ妄想学
会」会長のわたくしとしてもたいへん興味を持って拝見した。ヤキソバという
のが日常に密着し、地域住民の心をさりげなく掴む。とりあえずお昼にはヤキ
ソバを食べたくなってしまうようなコマーシャル性、ある種のプロパガンダと
してのムーヴメントをソウルに訴えかけ、乱立する小規模なコミュニティに対
しイニシアチブをアピールし、いわばキャピタリズムの縮図とも言える箱庭の
一つ一つをオブジェクトに見立てボトムアップ方式でのプランニングを提唱す
る一種のソシオロジーとしてたいへん興味を持って拝見した。わかったから帰
れ。実家に帰れ。
ブブンヤキソバの世界のおもしろいところは既にゼンブヤキソバの世界が存在
するところだ。限界値は遙か銀河の彼方のハッブルの法則が支配する世界では
なくて、ゼンブヤキソバの世界だ。ただしブブンヤキソバがどれだけ集まれば
ゼンブヤキソバになるのかは想像も付かない、無限等比級数的にいつまでも極
大には達しないのかもしれない。
そしてさらにブブンヤキソバの世界はゼンブヤキソバの世界を見据えながらも
視点ベクトルはさらにミクロの方向へと向き始める。麺の一本一本、さらにそ
の麺のブブンブブンが細分化されてしまい、僕たちはゼンブヤキソバの世界に
辿り着きたいのに同時に一方では更に分裂を繰り返してもっと細かいブブンヤ
キソバの世界が形成されていってしまう。目指したい方向とは別の方向への力
が否応なく働いてしまう歯がゆさだ。
作中で「僕」は「君」への愛を吐露するがその愛も細分化され、絡まり合って
しまう。百歩譲ってこの愛をブブンヤキソバとして完全な物として置いておき
たい、保存しておきたいと思っても、それすら許されないのだった。完全なブ
ブンヤキソバはゼンブではないにしろ、麺を意識せず、お互いに絡まり合った
りしないのだ。しかし叫んだ瞬間に愛はどんどん分割され、手に負えない代物
になってしまう。時間は止まらない。
僕らはこんな世界で手に負えない代物ができあがってしまうたびに「残念だ、
残念だ」と思い、時には目をつぶり、時には情けなく笑い、寝て起きるとまた
同じことを繰り返すのだった。週に1度くらいは天上を見上げ、その先の空を
見上げ、「いつかきっと」などと思い背筋を伸ばし、同時に冷蔵庫の中ではそ
ろそろ残り物のジャガイモが腐り始め、月曜日の朝にはゴミを出す。
時間はやはり止まらない。