鏡像(10)「I さんの記憶」
リリー

 「はい、どうしたんですか?Iさん。」
 私を手招きするIさんの車椅子へ
 膝を折り目線を彼女より低くして寄り添う

 舌が上手く回らないIさんは
 口籠もりながら優しい目をして
 お風呂が気持ち良かったと話すのだ

 夕食待ちの大食堂はアコーディオンカーテンが閉まったまま
 待合所のフロアには、もう大勢の方達がおられる
 この日 シフトの遅出勤務だった私は
 食事介助と夜のオムツ交換に携わる

 Iさんは私のことを
 長浜にいらっしゃる妹さんだと思っている
 九十歳近いIさんにとって、若い私が妹であるという事は
 彼女自身いつの時代を今、生きておられるのか?

 食事介助で私が彼女のテーブルから離れ
 別の方の介助に付くと
 食事を終えて病室へ戻る時いつも
 私を睨んで怒るのだった

 寮父が宿直業務へ就いた日の朝礼で報告される
 認知症のIさんの、オムツ交換への激しい拒否と抵抗
 「こんな状態ですわ。」
 ユニフォームの袖口の腕には赤い引っ掻き傷
 
 女性としてのアイデンティティは護られなければいけない
 
 寮父が宿直勤務の日
 Iさんの深夜のオムツ交換は行わないまま
 排尿でどっぷり重たくなったオムツを、
 早朝の早出出勤の職員が交換するようになったのだ
 


自由詩 鏡像(10)「I さんの記憶」 Copyright リリー 2024-03-08 16:47:30
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