Lの昇天③
おぼろん

*夜明け


 ニュース屋が言ったように、一面識もない人間の生死のことなど、他人が分かるものなのだろうか。そう考えながら、Lは夜の間も歩き続けていた。S市の繁華街はそれほど広くはない、いつの間にかY山の麓付近を歩いている。Y山はS市のほぼ中央にある小高い山で、昔はこの上に山城が築かれていた。今では大学のキャンバスになっている。

(何も考えまいと努めていたはずなのに……)

 色々と多くのことを考えてしまっている、そうLは思った。それに、死ぬといっても本当に今日死ななくてはいけないのだろうか。あるいは、これも病気の一つの症状なのではないだろうか。うつ病の患者はしきりに自殺したいと考える、それくらいの知識はLも持っていた。

 しかし、今のLの気持ちはそれとは違っているようだった。

(死は必然だ)

 という考えが、何度も頭のなかで木霊する。

 30歳という年齢は寿命と言うにはあまりにも若い。母の後追い自殺をしたいわけでもない、父との間がそれほど不仲だというわけでもない。どれも、今死ぬのにふさわしい理由ではなかった。

(なんとなく死んでも良いんじゃないか)

 と、Lはふと思う。パウロ・コエーリョの小説でも、主人公が死のうとしたのは「なんとなく」という理由だった。それなら、わたしがなんとなく死んでも良い、という十分な理由になる。たとえ病気ではなくても、人は死んでしまうことがある。Lは、なぜかしらそんなことを証明したい気持ちになっていた。

 例えば、バケツの水が一杯になってあふれてしまったような場合だ。バケツを水道の下に置いて、一滴ずつの水を滴らせていた場合でも、いつかはそのバケツは水で満杯になってしまう。そこから後は、水道から水が滴り落ちればバケツからこぼれて落ちるだけだ。死がそんな理由によって来ても良い……。

(それとも、わたしが昔から水面下で自殺を考えてきたのだとしたら?)

 答えはいつまで経ってもはっきりしない。いつの間にか夜明けが迫っていた。

 厚いコートを着ていたので、夜じゅう歩いていても寒くはなかった。むしろ温かいくらいだった。あるいは、その日の夜がこの季節ではとりわけ暖かかったのかもしれない。

(なんとなく死ぬ)

 という理由にLはすっかり取りつかれていた。そして、MP3プレイヤーの電源はとっくに切れていた。しかし、イヤホンはそのままつけっぱなしにしていた。耳をふさぎたい。耳をふさいでいれば、やがて何もかもがはっきりしてくるように感じられる。だから、今は何の音も聞きたくない。Lは高揚感さえ覚えながら、そう思った。

 ニュース屋の言葉をもう一度思い出したのは、そんな時だった。

「それがいつのことかも知っている」

 そうだ。わたしは自分がいつ死ぬのかを知っている、それだけのことではないのだろうか。それが今日だった、それだけのことではないのだろうか。Lは心の内で反芻する。

(わたしは、自分の運命を知っていた?)

 まるで猫が自分の死に時を知っているように。

 Lは友人のMにLINEを送ってみた。

「何、こんな時間に?」

「えっと、お別れを言いたくって」

「はあ? こんな朝早くから迷惑なんだけれど」

「これが最後だと思ってさ……」

「いい加減にしてくんない!」

「ごめん、悪かったわ」

 予想通りの答えが返ってきたので、Lは満足した。今では、

(わたしが死を待っていたんじゃない。死のほうがわたしを待っていたんだ)

 と思うようになっていた。

 Lは再びH橋の上まで来ていた。H橋は自殺の名所などではない。そこから飛び降りても、自殺など出来そうにはなかった。Lはハンドバッグの中から二冊の本、聖書と「死の家の記録」を取り出して、川の中へと投げ込む。まるで、子猫か子犬を放り込むように。それは、生に対する決別のようなものだった。



*死への旅路


 Lは心が軽くなっているのを感じた。「こんなにも心が軽いのは何年ぶりのことなのだろう」と、Lは思う。その間には嬉しいこともあったし、悲しいこともあった。しかし、心がこれほど晴れ晴れとしていることはなかった。

(わたしが死を待っていたんじゃない。死のほうがわたしを待っていたんだ)

 もう一度Lは思った。

 空からは、再び小雪が降り始めていた。

<哀れなるかな、イカルスが幾人も来ては落っこちる。>

 という台詞がまた頭の中に蘇る。

(わたしはイカルスのように失敗はしない)

 そう、Lは感じる。その翼が蝋で塗り固められたものであっても、太陽がその蝋を溶かすことはないだろう。

 Lは、親しい友人全員に向かって、「今日死ぬことにした」というメールを送った。返信は一通もなかった。それが世界から見捨てられたことだと、Lは確信した。しかし、スマホもPCも使わない父にだけは、今の気持ちを伝える術がなかった。死の前に父の元へ寄っていこうか、とLは考える。が、それも父の余計な心労を増やすことになるだけだろうと考えて止めにした。

(死んでしまう人間はそれで良い、でも、死なれた人間にとってはいろいろとすべきことがある)

 今際の際になっても、Lはそんなことを考えていた。夜通し歩いていた後で、頭は呆然としていた。これで自動車でも運転すれば、簡単に事故を起こせる。自殺のような事故死、と警察は発表するだろう。そして、誰も他人を巻き込まないこと。どうすれば、そんなことが可能だろうか?

 実家にも自動車はあったが、Lはレンタカーを借りることにした。いずれにしても、実家に帰っている時間と余裕はないような気がした。レンタカー会社には迷惑をかけることになるだろう。しかし、死後の迷惑など誰が知ったことだろうか? 自動車を運転して、そのまま崖から落ちてしまえば良い。あるいは、ガードレールを突き破って、谷底に落ちてしまえば良い。レンタカー会社でも保険くらいはかけているだろうから、損をすることはないはず……

 そんな実利的な考えがLを支配する。「死」は一種の賭け事のようでもある、とLは思う。ニュース屋も言っていたではないか、自動車が何か関係があると。けれども、少年の予言に従うことはなんだか癪に障る。これでは、まるで少年の口車に乗って自殺したかのように思えてしまう。あるいは、洗脳されたかのように。

(やはり、海が良い)

 と、Lは思う。「Kの昇天」でも主人公は海で自殺をした。なら、わたしも海で、だ。

 それから自動車を何時間運転しただろうか。S市は海からは遠い。いや、実際には海に隣接しているのだが、S市の繁華街からは海は遠い。それなりの距離があり、自動車でも何時間か運転して行かなくてはならない。

 レンタカーのダッシュボードには、誰かが忘れて行ったのか、あるいは故意に入れておいたのか、ザ・ローリング・ストーンズの『スルー・ザ・パスト・ダークリー』が入っていた。Lはそれを備え付けのCDプレイヤーにかける。

 誰かからメールの返信が来たが、Lは放っておいた。これから死のうとしている人間にとって、メールの返信など関係ない。たとえそれが自死を引き留めるような内容のものだったとしても、Lは気にかけないだろう。それどころか、鼻で笑ってしまうかもしれない。父に会えないことは心残りだったが、それも今では気にならなくなった。

(英語の歌は良い。だって、意味が分からないもの……)

 Lは思った。ただ、「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」という曲名だけは知っていた。Lにとって、死は決して後ろ向きのものではない、前向きのものだった。もしも助手席に人がいたら、この旅はロードムービーのようなものになっただろう。そして、『テルマ&ルイーズ』のような結末を迎える。



*終着点


 Lにとっては不幸なことに、S市の海岸線には高い岬や断崖のようなものはない。どこまでも砂浜と防風林が続いている。道路は、海を隔てて防風林のこちら側にある。海が見えるのも時々だけだった。

(わたしはこのまま死ねないのかな)

 とLは思う。決断が付かないわけではない、死ぬに足る場所が見つけられない、その焦燥感だけがあった。(自分は「Kの昇天」の主人公のように砂浜で死ぬことが出来るだろうか。それほど自分は徹底しているだろうか……)Lは訝った。

(このまま自動車がガス欠を起こす場所まで走っていって、そこで海に飛び込むというのは?)

 だんだんに、Lの脳裏には荒唐無稽な考えが渦巻きだす。死ぬ前にガソリンは満タンにしておこう、と考えて、Lは一度ガソリンスタンドに立ち寄った。スタッフが笑顔で迎えてくれる。そして、Lは仏頂面。これではまるでコメディーだ、と思わないこともない。

 結局、S市の港のそばで自動車を止めることにした。

(ここから、海に入っていけば良い。溺死は出来なくても、凍死ということなら出来るかもしれない。じゃあ、わたしは夜まで待つんだろうか……)

 結末はすぐそばまで迫っていた。Lの友人たちが、Lの父親が、この後生きてLに会うことはないだろう。Lはそのことを確信していた。では、どうして自分は死ねるのだろうか。どうして、死ぬということが分かっているのだろうか。砂丘のような砂浜を、Lは海に向かって歩いていく……それは昨夜の彷徨の続きのようにも感じられた。不思議なことに、眠さやだるさは一切感じなかった。

 見慣れた花である浜昼顔の開花時期はもっと後で、砂浜には浜豌豆の花だけが小さく咲いていた。

(そうだ、こんな時期に海に来たことはなかったのだったっけ……)

 冬の海の色は青というのには程遠くて、グレーの混じったターコイズのような色をしていた。それは、空が曇り空であるのも関係していたかもしれない。が、そうでなかったとしても、その日の海の色は濃い藍色のように見えたのではないだろうか。Lは、死出の旅というものにここが本当にふさわしいのか、疑問に思った。

 左手を見渡すと、S市の港があり、停泊中の船やクレーンなどが見えた。右手には、ずっと砂だけが続いている。

 と、その時だった。Lは自分の背中がうずくのを感じた。「かゆい」というよりも「痛い」という感覚がする。身体は中から火照って、熱さにたまらない気持ちになる。Lは急いでコートを脱いだ。Lはその場にしゃがみこんでしまう。

 背中のうずきはだんだんと強くなっていく。セーターの後ろが盛り上がるのを、Lは感じた。それが何なのか、Lには分かるような気がする。

(待っていたのは、死ではなかったのだ!)

 と、Lは直感する。そして、セーターの縫い目を突き破って、最初の羽根が現れた。それは、まさしく天使に生えているような翼だった。――「Kの昇天」? 「ベロニカは死ぬことにした」? ……生ぬるい。それは死よりも激しい苦痛だった。

(わたしは羽化してしまう)

 と、Lは思う。赤ん坊が産道を貫いてこの世界に現れてくるように、Lの背中からは翼が生えていた。それは、Lの身体を中空に持ち上げられそうなほどに、大きくなっていく。

(わたしを待っていたのは、「死」ではなかった……)

 ――Lは再び思う。

 常人にはとても耐えられそうにない苦痛の後で、Lは完全に羽化していた。その翼をはばたかせると、身体が地面から20~30cmは浮き上がる。そうして羽ばたきを繰り返すごとに、Lの身体はだんだんに地面を離れていく。

 恍惚感など微塵もない、それは新しい「生」だった。

(わたしは天使になったのだろうか、悪魔になったのだろうか?)

 今のLに、それを確かめる術はなかった。ただ、羽ばたいて上空へ行くにつれて、S市の街並みが小さく見えた。友人や知人たち、父親の影がそこに透けて見えるような気がした……。


散文(批評随筆小説等) Lの昇天③ Copyright おぼろん 2023-12-19 16:57:37
notebook Home 戻る  過去 未来