Lの昇天②
おぼろん

*精神病院


 今から1年ほど前、Lは精神病院に入院していた。そこでは何もかもがおかしかったし、何もかもがおかしいことが正常だった。

 人というのは、その置かれている環境にすぐに順応してしまうものだ。患者の誰かが窓ガラスを割っても、病院の職員たちは平然としていた。患者たちも、何か面白いものでも見るように割れたガラスを見守っていた。

 窓ガラスを割った患者は、その直後により重い患者がいる病棟へと移されていった。Lが入院していたのは、比較的軽度の患者が集められている病棟で、雰囲気は穏やかだった。

 その理由を知れば驚かれるかもしれないが、Lがその病院に入院したのは警察官のひと悶着を起こしたからだった。つまり、措置入院というものである。警察当局のほうでは、Lを逮捕して拘置所にぶちこむよりも、精神病院に入れて治療させることが適切だと判断した。そういう単純な理由による。

 なぜ警察官と喧嘩をすることになったのか、その理由はLにもはっきりとしない。ただ、Lはコンビニエンスストアで万引きをして、とあるビルの非常階段に隠れ、そこからコンクリートの欠片を通行人に向かってぶつけていた。通りがかった誰かが通報をしたのか、コンビニエンスストアの店長が通報したのか、Lには分からなかった。しかし、警察官は間もなくやってきた。

 Lは階段の踊り場に立ち、勢いをつけて警察官の腹を蹴った。

「お、お前!」

 と言って、警察官はLに掴みかかってきた。それから取り押さえられるまではあっという間の出来事だった。Lの頭には、その時の様子が今でもスローモーションのように蘇る。さすが手練れと言う他はないが、Lは後ろ手を掴まれ、そのまま腕を背中に回され、階段に体を押し付けられた。巡査が応援を呼ぶのを、Lはどこか冷めた気持ちで聞いていた。

「お前、いい加減にしろよ、なあ! いい加減にしろよ! ……ええ、そうです」

 警察官が電話に向かって話したり、Lに向かって恫喝するのを、どこか遠くで見た光景のように、自分が今体験している行為ではないかのように、Lは感じていた。すべてが傍観者の気分だった。そして、一晩の取り調べの後、Lは精神病院に入院させられた。そこへと運ばれていく間も、Lは手足を拘束されたままだった。

 精神病院では色々なことがあった。そこで、Lはまず隔離室に入れられ、2日間ほど身体を拘束されていた。その間も、Lは何も感じなかった。ただ、時折意識を失うように眠りに落ちた。

 病棟には様々な人たちがいた。一日中念仏を唱えているような人、時折大声を出す人、暗く沈んだまま何も話さないような人、親し気に話しかけてくるが、何かあると途端にキレだす人、正常だとしか思えないような人。彼らの誰もが心に病を抱えていた。そしてきっと、Lもそうだったのだろう。Lが彼らを見ているような視点で、Lもまた見られていたのだ。

 精神病院で親しくなった人たちは何人かいた。それが何の甲斐もないことだと知りながら、退院後の連絡先を交換した人たちもいる。病院の規則ではそれは固く禁じられていたのだけれど……それを守っているのは少数だった。

 ある婦人は、3度の結婚と3度の離婚、そして3度の自殺未遂をしたと、Lに教えてくれた。その人は病院内でLが親しくした人の一人だった。

「こんな波乱万丈な人生はないでしょう? おまけに息子まで自殺しようとしたのよ? それで、わたしおかしくなってしまってね」

 と、婦人は言った。その口調はどこまでも穏やかで、自殺未遂を繰り返してきた人間のようではなかった。後でLは知ったのだが、その人の病名は双極性障害ということだった。一方のLは統合失調症と判断された。

「明るくて良い人ねえ、あなたがいなければ、わたし一日でもこんな病院に耐えられないわ」

 とも、婦人は言った。そんな感想が何か意外なことのように、Lは漠然と思っていた。

 病院内ではレクリエーションやリハビリテーションもあった。それらは社会に復帰するためのもので、互いのコミュニケーション能力や注意力を身に付けさせようとするものだった。Lは疎外感を感じた。「自分は今まで普通に生活出来ていたはずなのに、何のためのリハビリテーションなのだろう?」と思った。



*母と父


 Lが母親と最後に会ったのは、やはり精神病院に入院中のことだった。Lの母は大量のジャンクフードとカップラーメンを持って、Lの見舞いにやってきた。そんな母親を見て、Lの心は痛んだ。

 昔、Lの母は健康と豊かさだけを重んじているようなところがあった。ジャンクフードなど決して口にしなかったし、栄養豊富な野菜や肉、魚しか食べようとしなかった。

「10円も無駄にしてはだめよ」

 というのがLの母の口癖だった。

 それが、今ではジャンクフードとカップラーメンを持って見舞いに訪れる。Lにはそれが腑に落ちなかった。と同時に、腑に落ちない自分を目の当たりにしても、冷静でいられる自分を感じていた。きっと母は年を取ったのだろう、そして性格が柔軟になったのか、こだわりが薄れてしまったのか。とにかく、Lの母は変わったのだった。

「元気にしている?」

 と、Lの手を取ってLの母親は何度も繰り返した。その手も取るがままに任せていた。この病院では、時折誰かの見舞いにその家族が訪れる。友人や知人の訪問は許されてはいない。病棟に入れるのは、その患者の家族だけだ。Lとその母親が接しているのを見て、嫉妬している誰かもきっといるはずだった。

 Lは、母親が持ってきたジャンクフードやカップラーメンの扱いに困った。だから、同室の患者や親しくなった人たちにそれを配ることにした。そういった母親の訪問が、入院中に2、3度あった。そのたびに、Lは気まずい思いをしなくてはならなかった。その気まずさも、精神病院に入院している者特有のものなのだろうとLは感じた。

 3度の自殺未遂をしている、という婦人は、

「あなたはお母さんと仲が良くて良いねえ」

 と言った。その理由は分からなくもない。きっと、その婦人も自分の母親との思い出を思い出しているに違いなかった。そこに確執があったのか、Lとその母親との間のように穏やかなものだったのか、Lは想像が出来なかった。その婦人にはどこか秘密めいたものがあって、いくら話を聞いてもそこには謎か嘘が紛れ込んでいるような気がした。

 母親はその時末期癌のステージⅣで、Lが退院すると間もなく亡くなった。父親とLだけがその後に残された。Lの父の頑固さは昔のままで、Lと二人だけで暮らすようになってもそれは変わらなかった。Lは、なんだか自分が母親の代わりにされているような気がしていた。多分、それはその通りだったのだろう。

 実家に住んでいるということは、便利な反面不便なこともある。何も隠し通せない、すべてが明らかになってしまう、というのが不便な点だ。Lの父はLに亡き妻の面影を見ていた。昔のように健康的で贅沢なものを食べたがった。Lが退院し、母が他界してしまった後は、Lが父親の面倒を見る番だった。

 Lの父はLの入院中、一度も見舞いに来ることはなかった。どこか精神病や精神病患者というものを見下しているようなところがあった。Lの病気のことを恥だと考えていたのかもしれない。その娘に面倒を見てもらうということを、Lの父はどこか嫌がっている風でもあった。

 H川の流れを見ている時、そんな父親の顔は浮かんでも、Lの母親の顔は浮かんでは来なかった。

(ここに母はいない)

 と、Lは思った。

 Lは死んだ人間にも魂が残る、とは思っていない。死ねばそれまでだ。それは眠りに着くようなもので、決して目覚めることがない。母親の最後を看取っていて、Lはそう感じた。そのことがLの自殺志願の原因になっているわけでもない。Lは、母親と同じ場所に行きたいとは思わなかった。

 ただ、自分が自殺に失敗して、これから父のところに帰ることになれば、それはきっと気まずいことになるのだろう、とは考えていた。娘は再び狂人になった、とLの父は思うことだろう。そして、それを決して許さないだろう。それだからこそ、Lは今日にも死んでしまう必要があった。あるいは、Lの自殺志願の原因はそんなところにもあったのかもしれない。



*ニュース屋


「ニュース屋」と呼ばれる少年にLが初めて会ったのは、いつのことだったろうか。それが並川画廊というギャラリーでのことであったのは、覚えている。「ニュース屋」というのはもちろんあだ名で、その当時は中学生だったかもしれない。

 Lに会うなり、ニュース屋は言った。

「お姉さん、死ぬことになっているよ。自殺だってさ。正確に言うと、この世からいなくなるんだ。僕はそのことを知っている。だって、未来のことが分かるからね。新聞にも載るんだ。それがいつのことかも知っている」

 Lは、当然のこととしてニュース屋のことを不吉なことを言う少年だと思った。しかし、そこにはどこか真実味があるような気もしていた。自分はそんな風に見えるのだろう……と思えば、Lは納得することが出来た。たとえ、少年の口先から出たほら話だったとしても。

「わたしは死ぬの?」

 と、Lは確かめるように言った。

「死ぬよ。人間なら、誰だって死ぬさ」

 と、ニュース屋は答えた。

 並川画廊というのは、まだ素人の学生だったり、駆け出しの画家だったりする人たちの個展を開いている画廊で、Lはよくそこに通っていた。画廊を経営していたのは、並川広子という年配の女性だ。誰にとっても親しみを感じさせるような性格で、とくに用事がなくてもその画廊を訪れる、という人たちは多くいた。

 Lもそんな人間たちの一人だったかもしれない。Lは、時折個展を開いている画家たちと仲良くなったり、気に入ればその絵を買うこともあった。たいていはそれほど高い値段ではなく、彼らにとっても画材を買う程度の額にしかならなかったはずだ。とくに、銅版画を作っているある若い女性とは、誰よりも親しくなった。

(ニュース屋と会ったのは、彼女の個展を訪れていた時だ)

 と、Lは思い出す。たしか、2年ほど前のことだったろうか。恋人と別れる直前か、その直後のことだ。どちらだったかは思い出せない。自分の顔に死相が出ていたとしても、おかしくはなかっただろう。

 銅版画家の女性は、奥でオーナーの並川夫人と話をしていた。ニュース屋はたたみかけるようにLに話しかけてくる。

「お姉さんは自殺を考えたことはないの?」

「ないわ」

「お姉さんは今幸せ?」

「どうかな。まあまあかな」

「じゃあ、なぜ自殺なんてするんだろう?」

「わたしに聞かれても分からないよ」

「自殺願望はないの? 本当に?」

「ええ」

 ニュース屋は困ったような顔をした。それでは筋が通らない、と思っているかのようだった。ニュース屋はふと思いついたように、

「お姉さん、自動車の運転は出来る?」

 と聞いてきた。「ええ、出来るわ」とLは答える。

(なんだかわたしはこの少年の言いなりになっている)

 と、Lは思う。その少年が「ニュース屋」と呼ばれていることは、後で並川夫人から聞いて知った。なんでも、その少年の予言はよく当たるという評判らしかった。その日、画廊にどんな人物が来るのかも当ててしまう、と並川広子は言った。

「じゃあ、それが関係しているのかな?」

 と、ニュース屋はつぶやく。

(自動車が?)

 と、Lは呆れた。自動車の中で練炭自殺やガス自殺でもするのだろうか、とLは思った。Lはその時、練炭というものがどこで売っているのかも知らなかった。ガス自殺くらいであれば、自動車のマフラーを何かでふさげば出来るだろうけれど……。

 とにかく、ニュース屋と会ったのはその時一度きりで、それからその少年に会うことはなかった。そして、並川夫人の画廊を訪ねることも、Lは止めてしまった。芸術など自分には不釣り合いだ、と思ったからでもある。

 H橋の上で自殺を考えている今、Lがニュース屋の言葉を思い出しても不思議ではなかった。ニュース屋が最後に言ったのは、「お姉さんは死んで天使になるんだね」という言葉だった。Lはその時、ただ苦笑して何も答えなかった。今思うのは、「死ぬということは、果たして天使になるということなのだろうか?」ということだ。


散文(批評随筆小説等) Lの昇天② Copyright おぼろん 2023-12-19 16:56:49
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