獣臭
山人

 なぜこんなきつい仕事を請けてしまうのだろうか?自問自答しながら私は三条市吉ヶ平に車を走らせていた。
 次週に請け負った、二名の宿泊込み歴史の道八十里越道ガイドの仕事であったが、気分はまったく乗らなかった。わずか二名でしかなく、プロの山岳ガイドではないため、わずかながらの手間代を受け取るしかない。しかし、請けてしまった以上、コースの下見を行わなくてはならない。もう少し遅い時期ならば草藪に悩まされるくらいで済むが、この時期の残雪は硬く、滑落すると谷底まで落ちてしまう部分もあるし、小沢には雪が被りスノーブリッジ(天然の雪橋)となってるためリスクは大きい。その様子を見るためと山菜採りがてら向かうことにしたのである。
 全長二十五キロメートル以上の登山道の連続であるが、通常の一般登山道に較べると整備は悪く深山の連続で、人気から隔絶されてる。携帯の電波も一部分しかないため、トラブルは一〇〇パーセント回避しなければならない。
 山道は予想通り番屋峠付近から雪がまだ残り、その下の比較的緩やかな地形には数百年を超すブナの原生林が横たわっている。なにか、微妙な声を察知し、よく観察すると、猿の群れが居た。かまわずホイッスルを吹くと猿は一旦は逃げるが、私の正体がわかるとまたいつものペースで何かを探しているようだった。
 ブナ沢は天然ダムであったが、土砂が堆積し、沼地は消滅してしまったようだ。その近くに二〇〇年物のブナが倒れ、川に横たわっていた。そこを渡ろうと思ったが、足元が大きく崩落しブナの大木の幹に降り立つことは不可能だった。しばらくそこら辺を物色し、何とか渡れる場所を見つけ渡渉した。
 ブナ沢を越え、下を向きながら急登を無我夢中で登っていると、突然ドドドドドッと何かの音がしたと同時に私のすぐ左の藪を熊が疾走している。そのまま下に下ってくれよ、と祈るような気持ちでホイッスルを吹くと熊は動きを緩慢にし、再び登山道に出没した。わずか二〇メートル強くらいであっただろうか、熊と視線があった。来るのか?やられるか?しかし熊は、私を一瞥し踵を返した。大きな尻が印象的だった。熊の立ち去るのを息を殺してじっとしてながめ、姿が見えなくなってはじめて私はふたたび歩き出した。熊の荒い息であったのだろうか、あたりには獣臭が立ち込めていた。たぶん、熊は登山道を下り私を発見。あわてて一旦上ってから藪に突入したのであろう。
 二〇〇六年に猟仲間が至近距離の熊の留めを失中、手負いの熊が猟友めがけて突進し、凄まじい勢いで谷に落ちていったシーンを唯一目撃している。幸い、猟仲間は熊と組み合って沢に落ちた瞬間に熊が素早く離れたために一か月ほどの入院で済んだが、熊の爪で抉られた上腕や、削がれた耳たぶなどを垣間見ると、そうとう運が良かったと思わざるを得ない。タフな熊は大木に登り、断崖から滑落してもゴムまりのように強靭でダメージがほとんどない。野生の中の王である熊に、人間などどう足搔いても勝てやしないのである。
 狩猟時代、三〇メートルの距離で二頭射止めたことがあった。残念ながら一頭は渓谷の狭い部分に入り込み回収できなかったので実質一頭なのかもしれない。今回遭遇した熊はそれらよりさらに近距離である。
 熊と遭遇した後、私はなるべく声を発しながら山道を歩いた。
 吉ヶ平を出て四時間二〇分経過し、三条市と魚沼市の境界の鞍掛峠に着いた。そこから田代という湿原まで小一時間、その後林道を二時間歩いて家人に迎えに来てもらった。

 熊に限らず野生動物にとって生とはタフなものである。あの屈強な体躯を維持するために彼は餌を求めてさまよい、人気のない登山道を歩くことを知っていた。道があるのに藪を歩く必要はない。あの地はまだ雪消えが始まったばかりでみずみずしい山菜の確保は難しかったのだろう。あちこちを彷徨いながら彼は山道を利用し移動中であった。その道を歩く人間は雪消え以降私が初めてであったのであろう。
 生きるために食べる。体を作り生殖、出産を繰り返すそれぞれの野生動物たち。彼らにとっての生は敬虔なものであり、食べるという行為は野生動物たちの唯一の信念なのだろう。
 
 私自身、自暴自棄になることが今まで多々あった。この世から消えたいと思うことも。なんでこんな不条理で不公平なのか、何で俺だけが、そういった類の境遇を恨み、神を恨んだ。そんな私の命を私自身が守りたいと必死に願った。熊との遭遇は、まさにそんな瞬間であった。
 自然の中のほんの一コマなのかもしれない。たぶんそうなのだろう。明日になれば忘れてしまう事柄でしかない。熊も私もいっとき互いを意識し、怯えただけに過ぎない。あれから熊は餌にありついただろうか。
 私(達)の求める餌はとても複雑だ。もっと単純になればいいのにと、思うのである。


散文(批評随筆小説等) 獣臭 Copyright 山人 2022-06-05 16:14:58
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