詩はどこにあるのだろうか
山人
詩が書きたいのに書けないという病に陥ることがある。しかし、締め切りがあるわけでもなく、誰も私の詩を待っていてくれる者など居ないし、金銭的価値もないだろう。
私にとって詩とは何だったのか、と考えると、日記のようなものだと思うのである。つまり、あんな時期に書いた詩がこれだ。というような。
かつて、文学極道というサイトがあり、はじめて投稿したのは二〇一一暮れごろであったであろうか。とても恐ろしいところで、罵倒耐性がないと投稿できないというようなキャッチフレーズであったが、怖いもの見たさでびくびく投稿を開始したのである。途中投稿をやめた時期もあったが、ほぼこのサイトが終わるまで投稿を続けたのである。年間なんとか賞などと言うものを三回ほどいただいた気がするが、参加者の間ではことごとく評価はされていなかった書き手であろう。残念ながら創造大賞はいただくレベルに無かったが、そういう方々もこのサイトにはごろごろいるので、ビーレビューはレベルが高いサイトと言えよう。
私の詩作は、ほぼ見たままをただ詩文とするだけの単純明快なものであるから、暗喩もなにも無いのである。かつて、そのサイト(文学極道)で隠れ主みたいな書き手が居られ、彼は「読めない奴は書けない」という名言を残した。そのことから私は読めない書き手であり、書けない奴と呼ばれても仕方がない。最近の私は、暗喩に近いものを詩文の中にミックスさせ、直喩と叙景とを組み合わせたようなものを書くようにしているが、以前よくやった散文的なものは書かない傾向にあるようだ。つまり、根を詰めて詩をひねるという作業が煩わしくなっていて、生活の中で思いついたことや、気持ちの中に留まっている事柄などを日記調で書き流していくというスタイルなのであろう。
詩の強度という部分での比喩はとても大切かと思う。私は基本直喩専門選手みたいではあるが、どうしても言えないことなどを隠しながら訴えるような事例や、憤然たる思いや、過度な落胆などをストレートに綴るのではなく、その強度を何倍かにして伝える手法として暗喩(に至ってないのかもしれないが)を用いることがある。
暗喩多用のなぞなぞ詩のようなものがあるが、てんでバラバラにイメージを伴わず、あちこちに散乱し、奇想天外な詩句の羅列といった雰囲気の作品群である。こういうのはとても疲れてしまう。ただ、そういう作品がとても面白く、何度でも読んでしまうという読み手はそこそこ存在するようである。これはつまり、わからないから何度でも読むという行為でその作品の価値は高まるという考えもあるだろう。単純明快な何の捻りもない作品はさらっと読めてしまうがそこで終わってしまうだろう。難解であればあるほど、その作品は読み手に戦いを挑んでいるということなのかもしれない。ただ、その作品をこう読んでほしいのです、といった注釈などがつけられた場合、その、たとえば難解な詩の価値は落ちてしまうのではないだろうかと思うのである。あくまでも私的にはつまり、比喩は作品の強度を高める道具という気がするのである。
詩は、幸福過ぎても書けないし、忙しすぎても書けない。ポジティブシンキングの只中の人が詩を作ることはないであろうと私は想像する。しかしながら、幸福であっても、どこかに皮肉る心のゆとりもあったり、思考の刹那の瞬間に何かを書き留めたくなるのだろう。「煙草は心の日曜日」という旨い比喩があったが、詩作も煩雑な平日から解放され、ゆったりとした気分の時に、詩を書くことが休日の楽しみでもあったりするのかもしれない。
詩集というものをあまり読んでいない。不勉強なのである。一〇冊ほどであろうか。勉強のために無理矢理読んだものが多いのだが、いいなと思った詩人は川口晴美であろうか。そもそも詩人なのか何かすらもわからないのだが、知人からいただいた詩集であった。「やわらかい檻」といった詩集だったと思うが、散文詩であり、一貫した筆致で綴られている。平易な言い方だが美しく、奇妙なのである。ただ、私よりやや年が若いくらいの方であるから、現代の若い方には合わない部分もあるかもしれない。あと、プロの方々ではないと思われる詩人さんたちの合同詩集である、「きらる」は良い冊子であった。
私は現在現代詩フォーラムとビーレビューという詩のサイトに投稿させていただいているが、現代詩フォーラムは十一年目となる。その他にメビウスリングや前出の文学極道、ひどい時にはマイディアなどにも参加していたことがあった。メビウスリングと文学極道は既に存在していない。現代詩フォーラムには、プロの書き手さんも登録はされているようだが、今はその投稿を見ることはないようである。現代詩フォーラムもビーレビューも基本的に素人の詩人さん達かと思うが、中には良い詩を投稿される方も多くいる。たくさんいらっしゃるので、あえて名前は出さないが、たまに投稿されるのを楽しみにしている。
詩はどこにでも存在するものだと思うが、ふとした瞬間をメモしたとしても、そのメモは麻疹のようなものであることが多く、あとで詩文にしてみるとなんと凡庸になってしまう場合も少なくない。これだっ!という刹那な瞬間は時間とともに愚鈍な詩句に落ちてしまうのである。どこかにある詩は、やはり脳内に収めておくのが良いかも知れない。何かのヒントを書き留めておくことも優位ではあるが、メモすることで脳内の詩へのエネルギーが、メモした安心感で、極度に落ちてしまうものだと知ったのである。詩を見つけたら、まず脳内に保管するという作業が大切であると思うのだ。
いうなれば私の詩のスタイルは古い詩ということになるだろうが、古い人間なのだからしょうがない。二〇台の感性で詩を書けるはずもないからである。だからといって老害などと蔑まされる筋合いもないと思うのである。まぁ、単なる若さへの僻みでしかないのであるが。