雪のバス停のお婆
月夜乃海花

これは私が小学生の話である。

当時、私は北海道に住んでいた。塾に通う際に、夏には自転車を使えたものの、冬になると雪のせいで自転車が使えない。だからバスに乗らざるを得なかった。私はバスが嫌いだった。当時は乗り物酔いも酷く、バスの如何にも吐きそうになる匂いも嫌いだった。でも、一番に嫌いだったのはバスを待ってる時に、必ず出くわしてしまう、年老いた女性(お婆と呼ぶことにする)だった。

お婆は、紫の髪に安い店で買ったような、ネイビーのダウンジャケットを着ていた。そして、初めて話しかけられた時に、何も台詞を聞き取ることが出来なかった!当時の私はフゴフゴと何かしら言うお婆に、ただただニコニコと頷きながら「そうですね」を繰り返すのだ。ここは老人ホームではない。あくまでも、冬の雪の積もったバス停の前である。一秒でも早くバスが来ることをひたすら願っていた記憶しかない。

そして、そんなお婆との関係は冬の間ずっと続いた。相変わらずお婆の言葉は何も聞こえないし、何もわからない。ただ、夕暮れの雪の中にお婆と私が居る。バスの排気が匂う中にちっぽけな世界があった。白い雪は車の排気ガスで茶色く汚れ、私も少しずつ成長してゆく。いつかは、お婆のようになってしまうのか?そのような不安すら覚えた。家族の誰にも相手にされずに、何処に行くのかもわからないまま、言葉が通じてるのかも理解できないが、本人は満足している。自分だけが夢に迷い込んだような、真っ白な雪の世界。それは本人にとっては美しいのだろうか。今もバスの匂いが鼻にこびりついている。

私が後に塾を辞めたら、もちろんお婆と会うことも無くなった。
さらに、地下鉄を使うようになったのでバスに乗ることも無くなった。

数年後、父と百円ショップに行った。その時にある老婆から話しかけられた。
「あんた、何処かで会ったでしょ?」
私はその声を知っていた。紫の髪に例のダウンジャケット。何も変わっていなかった。そして、何よりもお婆が私のことを覚えていることに驚いた。というよりも、恐怖心を抱いた。お婆は真っ白な世界に居たのではなく、きちんと私とコミュニケーションを取っていたのだ。むしろ、何も見えず聞こえていなかったのは、私の方でそれを理解してしまうのが、怖い以上の本能で言い表せない感情を抱いて、そのまま動けなくなってしまった。
「早く行くぞ」
父が私の名前を呼んだ。私は彼女から逃げるように去った。
彼女は私を覚えていたのだろうか。小さな私を。何も知らず無垢な雪のような私を。


散文(批評随筆小説等) 雪のバス停のお婆 Copyright 月夜乃海花 2021-12-13 14:38:41
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