隠喩と論理形式
葉leaf
隠喩的な記述は、それがどれだけ通常の語法から離れているかによって、いくつかに分類することができる。
M1.社会通念上十分ありうる記述
例)桜が散った。
(受験に失敗したという意味)
M2.想像することは可能だが現実としてはありえない記述
例)湖が上昇した。
(何気なく見ていた風景のなかに湖があることに気づき、注意がそこに向かって、湖が意識にはっきりと浮かんだなどの意味)
M3.論理的にありえない記述
例)僕は夜を食べた。
(夜をじかに感じるだけでは飽き足らず、それを十分に味わい咀嚼しながら、自己の所有物といえるまで感覚しつくすなどといった意味)
隠喩的な記述はこれらのどのケースにおいても、語と語の間のシンタグム関係(文法に沿った語と語のつながり)が成立している。だから、たとえば「夢ところで食べよう肉が」のようなナンセンスな記述は隠喩として成立しない。そもそも、それは日本語のパロル(文法に沿って生成された具体的な言述)ですらない。隠喩は詩において美を志向するものだから、美しくないナンセンスな記述が隠喩として機能することはありえないし、そもそも意味を持たないのだから喩えることすらできないからだ。だから、シンタグム関係が成立しているか否かで隠喩を分類することはできない。
そこで登場するのが論理形式という概念だ。この概念はヴィトゲンシュタインに由来するものである。とりあえずそれは、対象が持つ、その対象について言及可能なカテゴリーである、と言っておこう。どういうことかというと、たとえば我々は花について、その色やにおい、種類について言及することができるが、足の速さや、躁鬱気質であるかどうかについては言及することができないだろう(比喩において言及されることは除く)。その場合、色やにおい、種類などが、花の論理形式だということができ、一方で足の速さや気質は花の論理形式ではないといえる。
論理形式は対象についてだけ定義されるのではなく、名(単語)についても定義される。野矢茂樹はその著書「『論理哲学論考』を読む」のなかで、名の論理形式を「品詞カテゴリー」と「意味カテゴリー」に分類している。たとえば「投げる」という他動詞はその前に「ボールを」などの言葉を必要とするが、それが「投げる」の品詞カテゴリーである。ある語が他の語と、ラング(文法の意)的に許容される結びつきをしている場合、その結びつきの形式が品詞カテゴリーである。だから、「夢ところで食べよう肉が」は、語の品詞カテゴリーに沿わないものなのである。それに対して意味カテゴリーとはより厳しい形式である。「僕は夜を食べた」を考えると、夜は食べられるものではないので、「夜を食べた」は「夜」あるいは「食べた」の意味カテゴリーにはそぐわないものとなる。意味カテゴリーは対象の論理形式と似ていて、たとえば花の足の速さについて言及することはできないから、「あの花は足が速い」という記述は花の意味カテゴリーにそぐわないことになる。
隠喩のM1とM2のタイプにおいては、語同士のつながりはそれぞれの語の意味カテゴリーに即している。だが、M3においては、語の意味カテゴリーが破られる。夜は比喩ででもない限り論理的に食べられるものではないからだ。そして、語の意味カテゴリーを破るこのM3のタイプの隠喩こそが、もっとも読者に新鮮な驚きを与え、詩情を喚起するのである。
ここまでの議論を少しまとめておこう。隠喩は三つに分類されるが、そのどれもがシンタグム関係を保っている。(このことは、語と語の結びつきが品詞カテゴリーに沿っていると言い換えることも可能である。)だから、シンタグム関係の成否ということで隠喩を分類することはできない。そこで、論理形式という概念を持ち出してみると、それは品詞カテゴリーと意味カテゴリーにわかれ、後者の意味カテゴリーこそが、隠喩を分類するのに役立つ。そして、意味カテゴリーを破る隠喩M3こそが詩において重要である。
M3は隠喩の一部である。だが、対象を隠喩に限定せず、およそ意味カテゴリーを破る記述全体(Bとしよう)を考えてみたらどうだろうか。それらはすべて隠喩であるといえるのだろうか。また、それらはすべて詩において美を創出するのだろうか。
たとえば、「毛糸の愛を飛ぶ」という表現を考えよう。この表現は隠喩であろうか。たとえば毛糸のやわらかさを毛糸の愛と受け止め、そのやわらかさを主体が心から感じつくしている(心から感じつくしているということを「飛ぶ」で表わしていると解釈する)、ということを表しているのだと解釈すれば、それを隠喩と捉えることも可能である。だが、多くの読者は、この表現が、比喩であることをやめてナンセンスなものに近づいていると感じるのではないだろうか。
次に、「目の唇が穴を殴る」。これを隠喩と捉えることは不可能ではないが、この表現にはもはや美しさが伴っていないし、ナンセンスなものにより近づいたと読者は感じるはずである。このように、「夜を食べる」のような二重の意味カテゴリーの破壊は美を伴い、隠喩として正常に機能するが、「毛糸の愛を飛ぶ」「目の唇が穴を殴る」のような三重四重の破壊は美しさを伴わないばかりか、無意味なものへと近づいていくことが分かる。
だから、意味カテゴリーを破る記述がすべて隠喩と呼べるかというとはなはだ疑問である。それは読み手の度量にかかっているように思われる。私としては、意味カテゴリーを破る記述は、明らかに隠喩と思われるもの(B1)と、隠喩としての機能が薄れ、ほとんど無意味な記述になっているもの(B2)に分けたい。もちろん、B1とB2は、截然と分かれるものではなく、その境界は連続していると考えられるが、この分類自体は有益であると考える。
すると、結論として言えることは、隠喩(M)と意味カテゴリーを破る記述(B)は部分的に重なりこそすれ、一方が他方を包含するという関係にはないということだ。共通するのはM3とB1だけであり、M1M2はBに含まれないし、B2はMに含まれない。
(M1M2(M3B1)B2)
隠喩の言語形式的な構造について少し議論してみた。詩を読むに際して、あるいは詩を書くに際してたまにはこういうことも念頭においてみると面白いかもしれない。