ワタナベ『リフレイン』
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丘 光平『壁』
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たもつ『ブブンヤキソバ』
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リョウ『東京少年 (皆のウタ)』
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松崎貴子『明々後日が、誕生日の男』
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批評ギルドがめでたくなにか継続的な雰囲気を出してきたので、お祝いというわけでもないがそういったものにこじつけてもう一回書いてみようとは思う、というか書くことは好きだ。書くことが好きなんだが書くにはまず材料が無いといけない。材料が無いとあんまり良く書けない。嘘なら書ける。嘘を書いちゃまずい。通すものは通さなければならない。この時点でちょっとタイピングというか身体を温めるためにも無理矢理に書いている部分があるが、興味のない人はすっ飛ばしてよろしい。と、前置きが終わることにまたそう言うことを書くのは無理矢理であるね。とにかく無理矢理に書くのは好きというより得意なんですけどー、それがおれの長ったらしい中にあんまり得るところの無い文章ならともかく、詩に関してはそうもいかないんじゃねぇのかと考える。という前置きで散々失礼だがワタナベの『リフレイン』に関してはおれは読んでいる最中、そして読み終わったあと再度読みに戻る途中、常につまずきつまずき読んでいる感じがあったんだけど、なんでかというと散文詩というものがあるだろう。あれから句読点を剥奪して、改行と称して無理矢理折り曲げたような感触を受けていたんだね、どうも。どうもってじぶんのことですが。で、そこからちょっと考えてみるに、彼はもともと彼の頭の中にあった文章然としたものを無理矢理ひとつの「詩」みたいな形式にひねり出してしまったんではないかと思うんだがそこのところはどうだろう。おれがいつも考えていることのひとつに形式のことがあってねぇ。例えば今述べた散文詩であったり叙情詩であったり他にも思い浮かばないけどたくさんあるわけだよね、なんつーか形式の種類が。で、ひとつの形式に収まっている作者なんかたくさんいるじゃん。この書き方イコールあの作者、みたいな。ようするにその人の? 呼吸? みたいなものが。それはいいことだと思うんだが、おまえ本当に色々ある中からひとつ選んでそれにしたのかよと考えてるわけですよいつも大きなお世話だけど。頭の中でぐにぐにしている抽象的なイメージを、ひとつの具体性を持った詩に移し替えるわけでしょ。で、詩は器だとする。○と◇と☆の器があり、そのひとはもう○だと決めている。これをさっき、いいことだとおれは言った。けれどもそれは訓練の出来ている奴に限られているんであって、そういう奴は頭の中から器の中に流し込む量を調節出来る。でも最初から○の形しか知らないひとは頭の中に出来上がった抽象的でぐにぐにしてて不定形なものを全部流し込んでしまうわけだ。ところが、その頭に出来るものというのは常に○の容積と等しいわけではないから、足りなかったり、あるいは詰め込みすぎたりする。だからもうちょっと器に自由度を求めるわけにはいかんのだろうか、自由詩のくせに、うぜぇと、そういうことを日々悶々と考えているのだけども今の彼の作品はまさしくそれにあたる。うざいというわけではないですゴメンネ。あのままだと形式がおかしいし、形式に合わせるなら出す量を絞るかもっと出す必要があった。という違和感が何回か読んでるうち芽生えた。行間に恐るべき飛躍があるのに、行間以外のところにも恐るべき飛躍があったんだよ。おそらくリフレインしていたものはウッドベースだとおれは踏んだけど、ウッドベース自体になじみが薄いのも原因のひとつだといえよう。同じ音ならポップコーンでもチェックシートでもいけそうだしその方がリフレインして近づけさせるにはもってこいだ。いろんな意味で隔たりを感じた作品ではあったが、丘 光平の『壁』はその隔たりを題名に掲げた作品だ。一読して思ったのは、壁は作者の意図するところ、位置関係的には「ぼく-かべ-おんな」という場所が作者の意図するところだろうけど、そこじゃなくてぼくとおんなの小さい関係、その周りに壁があるように感じた。手狭なのだ。色の対比や生死の対比を使って一見広がっているようにも見えるが、そのひろがりは「ぼく-かべ-おんな」で示したようなミニチュアを出ない。CD盤ほどの狭い平面のどこかに交わるように一本の線が刺さっていて、それがさっき挙げた対比であるかのようだ。よ。その線は確かに長く確かに深遠で大きなテーマであるかもしれないがその広がりに視線を奪われて「ぼく-かべ-おんな」の面積を広げることには成功しなかったような詩だ。ところが最後の連はやけにきらびやかで美しい響きを持っている。「ここからの詩」を書けば良い広がりを持った詩になったかもしれないのに、「ここまでの詩」を書いているところに失敗があるし、なにか不可解な連結がある。なにか、じゃなくてえーっと、レモンとかそういう突然の衝撃的な連結が。あれには面食らったとだけ言っておこう。つーか、「酢えた」というのは誤字って奴じゃないんですか。あのなんかごちゃごちゃした漢字書く方のスエタですよね。少なくとも作品として出すからには、検証しようぜ。そこで間違えてると輪廻とか始原とかいうかっこいい言葉が薄っぺらくなっちゃうよ。というケチをつけていると彼のファンからボコボコに殴られそうだ。今プロフィールを見て思った。ブンガクゴクドーでも賞を取っているらしい。ひい。賞ってなんだ。カップ麺でももらえるのか。そういうのはともかく、丘光平より断然人気のあるたもつの『ブブンヤキソバ』がわたくしの目の前に差し迫ってまいりましたが、ええと。とりあえずポイントがガバガバ入っている彼ですが。ポイントはもらったら嬉しいもんだとおれ個人的には思う。と書いたからといってガバガバ入れられてもそんなの入らないよぅお兄ちゃんというか話がそれましたがしかしゼロポイントであることは多々あるわけであって非常に空しい気分になることもある。評価が見えないというより、本当に見てもらってるのかもわからないからだ。個々の作品にカウンター付けられませんかとどこかで管理人にお願いしてたひとがいたが、そういう気持ちからだろう。で、彼のようにたくさんポインツを貰ってるのを羨ましく思う反面、彼のように毎回毎回どしどしポインツを入れられているひともまたおなじ悩みを、「本当に見てもらってるのか」的な悩みを抱いたことがあるんじゃないかと邪推したわけで、そういった意味で彼は批評ギルドに作品を持ち込んで当然というような勝手な印象を受けた。それはそうとして、普段トップページのトップ10みたいなのでちらほら見てるいつものやつとおなじように、俗語をあちこちにちりばめた作品だとまずはそう思った。しかしブブンヤキソバというテーマ、軸を通したいのはよく分かるんだがいらないところにまでその軸をブスブスと刺していってる。それが題名に掲げられたごとく中心的な役割を果たす軸かというとそうでもなく、なにか備忘録的にブブンヤキソバあるいはそれにかんする記述がある。電柱の陰から見守る姉のようだ。だから第三者的にはその備忘録的なものが見えたとしても、決して姉が見つめているものを体感することができない。ここが感情移入のできない点だ。なにかつながりを求めようとしていること、順番、単語単語の印象、をこころにとめることは出来ても決して全体的なイメージとして体感できない、ということはひとつの損害だね。おれに分かりやすくみんなに分かりにくく書くと、彼の生み出した圧縮された概念に死の記述が導く対比がブブンであることを浮き彫りにしているんだが、空虚なものが見えない。出来上がったものと空虚なものを徹底的に濾過することがまだ必要だ。あるいはフィルターを俗語として新しい形式が見えると、それはそれで面白いかも知れないね。
さて、ここで改行を交えて少し別の話を書く。直接的には関係のない話なので短く終わらせようと思うが、翻訳の話である。翻訳といえば日本語の文章を英語の文章にするアレのことだが、ともかく翻訳のことだ。翻訳された作品を読むとき、よく、作者の書いたものを読んでいるのか訳者の書いたものを読んでいるのかわからない、といった混乱に陥ることがある。訳者は逐語的に訳しているわけではなく意訳しているわけだから、訳者の選んだ言葉のはこび、流れ、あるいはリズム、感覚じみたものを、翻訳された文章では受けるというわけだ。で、それは置き換えればこうだ。作者は「頭の中」、訳文は「作品」、そして翻訳者は、例えばここでいうなら「詩人」そのものなんである、つーことはさっきも器との関係でちょっと書いたので重複になるから手短にいこう。100%翻訳しきれるひとかたまりの文章などほとんどない(すごい短い文章ならありえるかも知れないが)。おなじく、じぶんが思い浮かべたものを100%言語に翻訳出来るケースなど、ほとんどないというか、壊滅的に無い。ところが詩人はそれを成そうとしている一群だと考える。おれはね。中には詩人と自称したくないひともいるようだし。詩人がそれを成そうとしている一群だとすれば、俗っぽすぎる固有名詞あるいは言い回しを使うことで他言語への翻訳可能性を消してしまうのは、読者の限定(読者は日本人対象)である。「じぶんが思い浮かべたものを100%言語に翻訳すること」と「読者を限定すること」は相反するということをいいたいわけ。作品中に別の言語を入れることもそうだけど(例えば作品中に英語を入れても、全文が英語に翻訳されることで効果が失われる)。で結局何が言いたいかというと、おれが俗語や英語をあまり用いたくないのにはそういった理由がありますよ、と。まぁじぶんがそれを完全に実行出来てるかというと出来てないし、それを除いても例えば「川の字になって寝る」なんていう表現は注釈無しには翻訳不可能だとは思うんだが、とにかく自らすすんで可能性を潰すのはいけないと考えるわけだ。
というわけでおれが批評するにあたって頼りにしている概念についてちょっと書いたよ。フィルターを俗語にする、ことを受けてのことだったんだが、ひとはいろんなフィルターで自らの頭の中にあるものをこしてる、濾過してるんだが、リョウの『東京少年 (皆のウタ)』はそれが顕著にあらわれている一例かも知れない。というのは、彼はちょっと「東京」という言葉の持つイメージに期待しすぎている、と感じたからだ。地名のことに関して毎回おなじことを書いていると、なんだあいつは地名が単純に嫌いなんじゃねの、アホかと思われそうだが、事実東京のイメージがわかないおれにとって「東京とはこういうものだと思っていた」みたいなことを世田谷とか国立とか交えて語られても、なおのことよくわからないのだ。それは結局、「石川」「金沢」「珠洲」「鳥越」でああいうような詩を書いても東京のひとにはハ? ナンスカソレ? と受け取られるのとおなじ意味ととらえて欲しい。別に地名を使うのが悪いのではなくて、地名に大きな期待を寄せすぎると混乱を招くということだ。ではそれはともかくとして、だ、具体的にメスを入れるとするならば、あれだ。過去形で疑問を提起しているような感じなので、現在形というか現在進行形というかそういうものでもうちょっと味付けをするとよろしかったんではないかね。おそらく最終連付近は救い的なものを多分に含ませたかったんだと思うが、圧倒的に足りない。あるいはそれぐらいの救いだったら無意味なので、バッサリ切っておいた方がいい。なんとも救いとしては中途半端な印象を受ける。しかし東京少年という語句の使い方は、まさしくリフレインである、とはいえるね。ところでリフレインという単語をインフォシークのマルチ辞書で検索すると、おれがリフレインに関してあまり知識が無かったのがバレバレだが、とにかく検索すると、「リフレーンとも。」と出る。散々リフレインと聞かされてきたので今更そんなことをいわれても違和感を感じる。レインコートをレーンコートといわされているみたいだ。セイウチをセーウチと呼ばされてもいるようだ。そういった違和感に期待したと思われる作品が松崎貴子の『明々後日が、誕生日の男』である。見たところ前衛的なものを狙っているようで、一読してさっと意味が読み取れるような作品ではないのだが、狙っているものが母音の連続だということは一読のうちにも読み取れる。英語なんか使うもんじゃないとさっき書いたばかりなのに、単語的であるにはしろいきなり英単語がふたつも入っているが、eeやiiという母音を連続的に読むのではなく、スタッカート的に読むことが強要されていて、それに先程書いた違和感が相まって幻覚的に読者を巻き込もう、巻き込むんだという意志はなんにせよ読み取れる。ところで半角スペースで言葉を区切るという形を見ると、おれはどうしてもあるひとの作品が思い浮かぶ。別に下手な引用はしたくないので、しないけど、そのひとの作品ほどには完成していない様子である。今頭の中に書くものがあり、見据えるべきビジョンもあるが、どうしてもそこまで記述が届かない。慣性に負けるボールのように勢いを失い途中で落下していて見据えた場所には到達していない。それはどこに読み取れるか。さっきeeとかiiがスタッカート的に読むことが云々といったが、母音を意識させることは呼吸を想起させることでもある、かどうかは断言出来ないにせよ、加えて、半角スペースによる区切りを見るにいたっては、そうであると断言せざるを得ない。ところがその割にはご体裁的な改行と空白である。いくらかなめらかな発音をし、または心がけているひとでも、話の途中途中にしゃっくりをされたのでは耳障りだし、そのしゃっくりばかりに気を取られる。おなじようなことがこの詩でも起こっている。しゃっくりは治そうと思ってもそうそう治るものではない。しかしいつの間にか治っているのである。しゃっくりごときで死を考えるひとはいない。治すためには生活を続けなければならない。だから今列挙したすべてのひともそうでないひとも、おれに四の五のケチを付けられたからといって一喜一憂したりoldsoup死ねと思ったりしないで、詩を書くことを根気よく続けていって欲しいもんである。