ピクニックへの餞
道草次郎

かつて健康だった時、責任も余り無かった時、自分の中のどろどろした感情を殆ど感じずに済んでいられた時、ぼくはよくピクニックへ出掛けたものだ。天気が良く、気持ちのいい風が踵を掠めるような土曜の朝などはとくに。

それは、アルルの跳ね橋みたいな橋の下に水色をした不思議な水門がある公園だった。
それは、白地に薄紫の斑が混ざったジャーマンアイリスや橙色の菖蒲の花が咲いている公園だった。
それは、人々がレジャーシートを敷きその上で『西瓜糖の日々』の登場人物のように愉快なお喋りに弾む公園だった。

そんな公園へ、ぼくはぼくを、しずやかに駆り立てたものだ。

その時ぼくの着ていた服には数え切れない程のポケットがくっついていて、そこには幸せな『六十二のソネット』や、清潔な帆船のような『物質的恍惚』、古代の石碑に似た『ウパニシャッド』が煌めいていたかも知れない。

だが、いつもどこかでぼくは自分を持て余していたのも本当で、いじいじと、「このこころはなんて狭い考えの檻にいる動物だろう」などと考えたりもしていたに違いない。

それでも、ぼくはひとしきりピクニックを愉しんだと思う。

精神のデルタ地帯には些かの余地がまだ認められたし、青葉という青葉が、依然として、太陽を背に逞しく茂っていた季節だったから。

チャコールグレーという語感、あと、ラピスラズリという質感、そういうものにすら親しみを隠せなかった。
出逢う可能性を秘めた存在全てへの愛の疼きを感じ、美術館の回転扉になったつもりで道行く人々に囀ることさえ可能だった。

ドウダンツツジが犇めく隘路を覚えている。その先には蔓薔薇にうつくしく侵食されたカトリック風の小屋とオレンジ色のベンチがあり、何故かぼくは足繁くそこへ通っていたのだ。
途中、ミニチュアダックスフンドやチワワたちとよく擦れ違った。その時、彼らの嬉しそうな鼻息を聴くことは寧ろ、ぼくの耳の喜びであった。度々、『若きウェルテルの悩み』のロッテの様な神聖な耳で世界の音に耳を澄ませている自分に気付き、赤らんだ頬を秋風に冷やすことも少なく無かった。

こころの箱庭には、いつだって、一町ばかりの夕焼け空があった。
その空にはたくさんの、とてもたくさんの素敵な昔話や、外国の妖精たちが舞い遊んでいて、しばしばぼくを楽しませた。

雨が降っても、それは、全て走り雨だったのだろう。雨傘の先っぽからごぼれるしずくは、その曲線の中に、すでに、陽光を孕んでいたようにみえた。
そして、必ずと言っていいほど近くには東屋があった。東屋に居る筈の恋人たちの姿はなく、ぼくは独り切り株のような椅子に腰を下ろすことができた。
そこでぼくは右脇腹のポケットから大根の皮みたいに薄い『イワンイリッチの死 』を取り出し、雨を受け止めてくれる東屋の屋根を強く意識しながら、幸せに、トルストイを味わうことができた。彼の双眸の投げかけるエデンの東と適切な距離を保ち、軽やかに信仰の眼差しを交わすことさえ出来たのだ。

公園の池には鯉や亀がいた。
人が近付くと寄ってきて餌をねだるのだったが、ぼくには、そのことすらも快く感じられた。しかしポケットには物語や詩句、哲学者しか入っていなかったので、彼らを満足させてやることはいつも出来なかった。
だが、そうしたこともそれはそれで満ち足りたものではあった。
ぼくはその時、自分が産まれる前のことも死んだあとのことも、全くと言っていいほど考えていなかったと思う。それらのこと全てはまるで精巧な縮尺模型の様であった。
生き物たちのうつくしい動静の中に見てとれる自由を謳歌することに必死で、息を呑むことしか知らなかったのだ。

上り階段の袂にたたずむ知らない若い女性を日がな一日見つめていることもあった。
彼女の、淡い緑がかった瞳がそれまでに見てきたものを見たいと希い、思想の湖のほとりを独り散策することもあった。
そして、ふとした拍子に彼女の足元にミリンダ王の問いを落としてしまい、彼女がそれを拾い上げぼくのことを見つめるや、全てがたちまち霧消してしまう、そんな幻想をさえこよなく愛玩した。

あの日々、ああしたピクニックの日々に於いて、ぼくはぼく無しで成立する世界を想起することが出来たし、その悉くを哀切に想うことさえ厭わなかった。
余りに無邪気な、そして余りに残酷な標を未来へと杭打った日々であった。

あれは失われた季節。
白く、あわく、そして儚い時代だったのかも知れない。

そして、今ぼくは、自分のこころの雨戸を閉めてしまっている。思えば数え切れぬほどの気散じがあるにもかかわらず、ぼくはぼくという殻に閉じこもって余りに久しい。

だが、忘れてはならないことがある。それは、自然のこと、万象のことである。植物が辛抱強く根を張るように、ぼくは、時期を待っているのだ。そのことを忘れてしまってはならない。

遠い芽吹き、それを我がものとしないことだ。
こころというこころに生起する、様々の、うつくしいもののことを忘れてはならない。それは自分のものだけでなく、他のたくさんのこころ、自然、生活のうちにみなぎる力と同じものであるに違いないのだ。

ぼくは、今、こう希うほかは無い。
身を、この身から引き剥がすこと。それから、自分を一把の菜の花としそれを喜んで摘むこと。

今日吹いた春一番の荒風に恃み、ぼくは、いつまでも、そのようにしていたいと思っている。
春は近い。そのことを、忘れてはならない。



散文(批評随筆小説等) ピクニックへの餞 Copyright 道草次郎 2021-03-02 17:02:53
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