映画『赤ひげ』と父の思い出
道草次郎

昨年、父が庭に植えたハナモモの樹(桜の時期に前後して紅白のにぎやかな花を咲かせる)がはからずも倒木の憂き目に遭った。特別、大風が吹いたわけでもないが、黒々としたその幹は人知れず根元からボキリと折れてしまったのだ。それだけではない、父の大切にしていた蔵書も経年劣化により黴臭くなり、ところどころ虫食いの痕がみられる。父が鬼籍に入りはや二十年となるが、事象は留まることを知らずどんどんと流れていく。あたかもそれだけは確かな事のように。

言葉では言えない、何か、途轍もなくでかいものでも見せつけられた経験について今回は話そうと思う。何もそれは必ずしも実生活によっていなくてもいい筈だ。例えば、一本の映画が何かの運命であってもいいように。今回はそういう話だ。

少し前置きのような話が必要かも知れない。自分が父を亡くしたのは十七歳の頃だった。手の打ちようの無い病に侵された父の意識は、最期の日々、モルヒネの投与により朦朧状態にあった。極寒のあの日トイレの介助をしてもらいながら、まるでうわ言のように、手つかずのりんご畑の心配ばかりしていた父の姿は今も憶えている。その日の未明に父はかえらぬ人となった。 

今思うと自分にとって十七歳というのはとても大事な時期だった。何故ならこの時に見たり聞いたり体験したりした事が、後々になりその人間の土台を作っていくからである。少なくとも自分の場合はそうだったといえる。

そんな多感な十七歳という年齢に出会ったのが、黒澤明監督の『赤ひげ』という映画だった。今回はこの映画について少しお話をしたい。ところで、言うまでもなく『赤ひげ』は有名な映画だ。だが、ご存知ない方の為にも簡単な概略だけは紹介しておいた方が良いと思う。

赤ひげと仇名される貧しい養生所の医師、新出去定を中心に据え展開される人間ドラマ、それが『赤ひげ』だ。時代は江戸後期、貧しきものはひたすらに貧しかった享保の改革の折である。保元という若い医師との子弟物語でもあり、それを取り巻く人々の温かさを描いた作品としても観ることができる。 

今回取り上げてみたいのは、この『赤ひげ』の中の一場面、蒔絵師の六助という一人の死にかけた老人の臨終にまつわる部分だ。劇中赤ひげは、配置されて間もない保本にこの六助の最期を看取るように命じる。赤ひげは言う。人の一生のうちで臨終ほど荘厳なものはないと。自身の処遇に不満を抱いていた保本だが、困惑しつつもこの赤ひげの命を受けることとなる。 

さて、いよいよ臨終の時。 

六助は、喘ぎとも呻きともつかない声を吐きながら、苦しみを最後の最後まで嘗め尽くし息を引き取る。その光景を目の当たりした保本は呆然と立ち尽くす。やがて保元の胸には、動揺とともに赤ひげへの反発心が湧き上がって来る。なにが荘厳なものか、こんな最期がどうして荘厳なものか、むしろ醜悪ではないかと。 

しばらくして、六助の娘を名乗る女が突然訪ねて来る。女は六助のたった今の臨終を聴いて大いに嘆くのだが、やがて、赤ひげと保本の前で身の上の事を話し始める。ここでは、その一部始終を全て紹介しないが、早い話、女は、女の母親とその愛人に散々な目に遭わされてきた。もちろん六助はその愛人の男に家族を奪われ、残酷な事に娘まで思いのままされたわけだ。でも、女はついにその仕打ちに耐え切れず、愛人の男を刺して家を飛び出して来た。そこで、父である六助を頼って訪ねてきたというわけなのだ。劇中においては、六助の歩んできた人生がそこで初めて明らかとなる。 

そして、ここからが肝心なのだが、話し終えた娘が訊くのだ。「おとっつあんの最期、どんなでしたか?安らかでしたか?」すると、赤ひげはこう答える。「六助の最期はそれはそれは安らかだった」娘はそれを聴いて腹の底から安心するように、「そうですよねえ、そうでなけりゃあ・・・、おとっつあんみたいな人が・・・そういう安らかな死に方でなけりゃあいけませんよね」としきりに納得し、ふたたび涙に暮れるのだ。 

その様子を傍らで見聞きしていた保本は、なんともいえないショックを受ける。保本のなかで名状し難い途方もない何かがわき出す。そして、それが人間の生と死をめぐるさまざまの思いと共にめまぐるしく泡立つのだ。それが、このシーンを観ている者には手に取るように分かる。黒澤の手腕は並み大抵のものでない事は疑い得ない。また、役者の芝居も鬼気迫るものがあった。

冒頭で話した父であるが、映画やドキュメンタリー番組を録画するのが趣味みたいな人だった。だから書斎にはいつもビデオテープが溢れ返っていた。何を隠そう、父の遺品整理をしていた時気を紛らわす為観たのが、他でもないこの『赤ひげ』だった。初めは気晴らしのつもりだったが、これが実に面白くて、気が付くといつの間にかすっかり惹きつけられていた。

べつに六助の死と父の死を重ねた訳ではないが、その圧倒的なまでの衝撃は十七歳の自分を稲妻のように貫いたのは本当だ。そう記憶している限りは、それはぼくにとっての真実であり続ける筈だ。

そんな十七歳の自分が受けた『赤ひげ』の衝撃。それも、しかし今ではとおく霧の彼方にあるようにも思われる。だが、それと同時にその経験は、燻り続ける燠として胸のおくに常に存在しているようにも感じられる。

いずれにしろ年月は過ぎ過ぎ去ってしまった。もしまだ、この心に、あの時の感動が燠として燻っているなら、自分の両手はそれを包んでやれるだろうか。ふとそんな事を今は考えてしまう。





そうだ、最後にちょっとしたエピソードを。ある日父の遺品整理をしていると、手帳から一枚の手書きのメモが落ちた。拾い上げるとそこにはこんな事が書かれていた。

「変えられないものを受け入れる冷静さと
変えるべきものを変える勇気を
この両者を見分けるえい知を」


ぼくは思わず父の書斎を見回してしまった。そこはかとなく何かの気配を感じた気がしたのだ。もちろんそこにあるのは、ただ、静寂ばかりだった。その静寂は、しかし、今に至るまで忘れられない静寂であった事は否定できない。あれは、紛れもなく特別な静寂だった。ぼくに書くことの出来る歳月への手紙は、まだ、これぐらいなのかも知れない。


 




散文(批評随筆小説等) 映画『赤ひげ』と父の思い出 Copyright 道草次郎 2021-02-06 22:30:39
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