ピーナッツバタートースト
ホロウ・シカエルボク

 ちょっと焦げたピーナッツバターが乗ったトーストとカフェオレの為ならなんだって出来る、とマリはいつもふんぞり返って話してた。「あたしにとって人生で大事なものはそれだけなのよ」って。実際、一日に二回(朝は寝ていたから二回)の食事がそれだけという日も週に何度もあった。どれだけ捻っても雨漏りぐらいのお湯しか出てこないようなシャワーしかついてない、トイレの水は流すたびに便器の根元から水漏れする、キッチンのガスコンロは油断するとすぐ消えている、窓はもともとそういう模様だったのかと思えるくらいにまんべんなくひび割れていて、ソファーは虎が爪とぎに散々使ったあとみたいに破れまくって、元の布地は何色だったのかなんてもう全然わからない。踏みしだかれた埃がフローリングに吹雪の絵みたいに張り付いて穴だらけの床。五階建ての二階だから本当の雨漏りだけは味合わずに済んだ、そんな部屋で暮らしているくせに、パンを焼く機械だけはフランスのものすごくいいやつを食卓にでんと置いていた。おんぼろの部屋でピカピカに輝いているそれは、あたしからすればスラムに降り立ったUFOかタイムマシンみたいに見えた。マリはそれを買い、上等のパンとコーヒーとバターの為に週に三日、手だけで男をイかせる仕事をしていた。まだ十八になったばかりだっていうのに。その仕事に行き着くまでにどれだけの「なんだって」をしてきたのかは謎だった。でも、きっとそんなに偉そうに話せるほどのことはしてきていないに違いなかった。いつか痛い目に遭うわよってあたしは何度も忠告した。
 「ナイフで脅されて、無理やり突っ込まれて、終いには殺されるかもよ。」
 あたしがそういう度にマリはお馬鹿さん、というようなムカつく笑みを浮かべて
 「大丈夫よ、あたしのボスはとても良くしてくれるの。お客はみんな優しい、綺麗な男の子ばかりよ。」
 「綺麗で優しいからってナイフと性欲を持っていないとは限らないわ。」
 ふんだ。
 「あんたなんて二回ぐらいしかセックスしたことないくせに。」
 それがマリの決め台詞だった。相手が誰かってこともマリは知っていた。あたしとマリは高校の時からの付き合いだから、お互いのボーイフレンドのことも、どこまで行ったのかってことも、大体のことは知っていた。本当にあたしをやっつけたいときには、そいつの名前を口にすることもあった。でもそれで何度か絶交したから、最近はあまり言わなくなった。担任のお情けで卒業して、遊べる友達がみんなどこかへ出て行って、この街にはあたしくらいしか残っていなかった。あたしは学生の時からバイトしてたレストランの居心地が好きだったから、ずっとそこに通っていた。いつか出て行きたいと思うこともあるかもしれないけれど、いまはそんな暮らしが気に入っていた。都会に行ってお洒落な仕事に就きたいとか、大富豪と結婚したいとか、アーティストになるとか、クラスメイトが話している夢はどこか馬鹿馬鹿しく思えて、ただなんとなく毎日を生きていけたらいいかななんて考えていた。年寄りみたい、とマリはそんなあたしをよくからかった。あんたは売女みたい、ってそのたびにあたしは返した。あたしたちは特別気が合うということはなかった、むしろ、まるで違っていて、そのことが面白かった。そして、どちらにもそれを取り繕う気がなくて、お互いに遠慮がなかった。普通の仲良しとは違っていたかもしれない。だからあたしもマリもお互いを親友だなんていうふうには言わなかった。「腐れ縁」そんな言葉が凄くしっくり来る関係だった。あたしは卒業と同時に堅物の親の家を出て、自由に暮らし始めた。ささやかなものだったけれどそれは自由に違いなかった。ことわっておくけれど、マリみたいにおんぼろなアパートメントじゃなくて、もう少しちゃんとしたところに住んでいた。もちろん、私の稼ぎで無理のない範囲でということだけど。マリは私に半年ほど遅れて親元を出て、私の住んでる区域の端っこに今の宿を見つけた。勘当されたって噂で聞いたけど本人には聞かなかった。お休みの日がちょっと騒がしくなるかも、そんな風に思ったことを覚えている。なんだかんだで楽しい日々だったと思う。時々は二人でちょっとした旅行をしたりもした。馬鹿みたいに並んで写真をたくさん撮った。どうしてあんなことしたんだろうっていまでも時々思い出す。でもあの時は少しも不思議に思わなかった。

 二年くらいそんな日々が続いて、マリは客の一人だった男と付き合い始めた。ある日突然マリの家に呼ばれて出て行ったら、モデルみたいな綺麗な男が居て、よろしくと挨拶した。綺麗なだけでなんの特徴も無い男だった。少なくともあたしにとっては。
 「彼はとても優しいのよ。」
 マリは馬鹿みたいな顔でそんなことを言ってた。

 その年の冬、クリスマスやらニューイヤーやらであたしの勤めてる店は凄く忙しかった。おまけにベテランのウェイトレスが突然病気退職したせいで休みも取れなくなって、毎日十二時間働いては帰ってシャワーを浴びて眠り、起きては出かけてまた十二時間働いた。ケーキもカウントダウンもまったくない、地獄みたいな十二月が駆け抜けたあと、騒ぎ疲れた一月の街をぶらぶらと歩いていると、少し先におかしな歩き方をしている若い女が居るのに気付いた。マリと同じコートを着ていたから余計に目立った。それはマリだった。
 「マリ?」
 あたしは叫んで駆け寄ろうとしたけれど、マリは聞こえなかったのか、聞こえたけど無視したのか、近くの角へ入ってすぐに見えなくなった。追いかけてみようか、それとも家を訪ねてみようかと思ったけれど、約束があったから日を改めようと思って家に帰ったその晩から私は熱を出し、数日寝込む羽目になった。きっと、忙しい時間が終わったことで気が抜けちゃったのね。

 熱は数日で引いたけれど、店長があたしを気遣ってもう数日の休みをくれた。あたしが休んでいる間に新人が入ったって。すごく出来る子だから心配しなくて大丈夫だよって。あたしはお言葉に甘えることにして、マリを訪ねてみることにした。最後に見かけたあの後ろ姿が気になっていた。少し細くなったみたいにも見えたし、なにより、歩き方もそうだけど悪い病気にでもなったみたいにあたしには見えた。あの男かしら、とあたしは考えた。

 マリの部屋の鍵は、かかっていなかった。そんなことは度々あったからそんなに深く考えずに部屋に入った。キッチンでマリがうつ伏せに倒れていた。今まで嗅いだことのない臭いが微かにした。マリの頭はへこんでいて、すぐそばに、マリの人生の象徴だったあのトースターが転がっていた。あたしは腰を抜かして、動けなくなった。這うようにそこを離れて他の部屋のドアを片っ端からノックした。三つ隣のおじさんが出てきてくれた。電話を貸して下さい、と頼むと、すぐに部屋に入れてくれて、コーヒーを出してくれた。きっとあたしは酷い顔をしていたのだろう。なにがあったのか、と聞かれたので、友達が殺された、とあたしは答えた。どの部屋かね、とおじさんが言うので、部屋の番号を教えた。おじさんは部屋を見に行って、帰ってきて、警察に電話をかけた。それからあたしを病院に連れて行ってくれた。

 犯人はやっぱりマリの男で、前科持ちだった。母親を殺しかけたとか。あたしはひと月ぐらい何もする気になれなくて、ずっと勤めていたレストランもやめてしまった。暖かくなったころマリの住んでいた部屋に行ってみた。不思議なことにまだそのままになっていた。マリが生きていた形跡はすっかりなくなってしまっていたけれど、あのトースターはテーブルにきちんと置かれていた。人の頭を砕いたというのに、買ったときのまんまみたいに見えた。ただ、すごく埃が積もっていた。あたしはキッチンの引き出しの中のタオルを出して、トースターを何回も何回も拭いた。あたしが彼女にしてあげられることはそんなことくらいだった。そうしてそれを拭いているととても涙が出た。最後には、あたしはそれを抱きしめて子供みたいに泣いていた。

 いま、そのトースターはあたしの部屋にあって、マリのようにあたしを見つめている。あたしは時々それでピーナッツバターをたっぷりと塗って少し焦がしたトーストを作る。カフェオレは嫌いなのでコーヒーを入れる。トーストもコーヒーも、すべてが温かく、それはマリが生きているとあたしに思わせてくれる。あたしは首を横に振る。親友なんて小奇麗なものじゃなかった。それは確かに腐れ縁という言葉が相応しい関係で、お互い正反対の性格で、そんなお互いがあたしたちは大好きだった。穏やかな朝に涙を拭きながら、あたしは初めてこの街を出て行くことを考え始めていた。

                         了


散文(批評随筆小説等) ピーナッツバタートースト Copyright ホロウ・シカエルボク 2020-12-11 22:19:10
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