詩誌「荒地」に所属していた詩人たちの中でも、北村太郎の存在は一種特異である。鮎川信夫のように出発時に先頭に立つこともなければ、田村隆一のように低空飛行しながら生き延びることもない。最初期にはいかにも「荒地」のカラーと同調した苦い隠喩の詩を書きながら、その後作風を変え、軽やかな詩行の中に苦さと暗さを散りばめる詩を量産してゆく。一九六六年に刊行された第一詩集「北村太郎詩集」とそれ以後の詩集では、誰の目にもわかる明らかな変化がある。田村隆一も第一詩集「四千の日と夜」とそれ以降の詩に大きな変化があるが、その変化が前記のように低空飛行と受け取られかねないものであったのに対して、北村太郎の変化は重さから軽さへの変化でありながらも、詩の中に湛えた苦味や暗さの質量は以前と変っていない。いや、時代の拘束から逃れてよりパーソナルな方向にシフトしたぶん、それらの質量は以前よりも増大しているように見える。「荒地」出身でありながら、「荒地」解体後の詩の世界で、後の世代の詩人たちにもっとも大きな影響を与えていたように映る。北村太郎の詩に現われる変化とはいったい何か? まずは「北村太郎詩集」から、有名な「雨」という詩を引く。
春はすべての重たい窓に街の影をうつす。
街に雨はふりやまず、
われわれの死のやがてくるあたりも煙っている。
丘のうえの共同墓地。
墓はわれわれ一人ずつの眼の底まで十字架を焼きつけ、
われわれの快楽を量りつくそうとする。
雨が墓地と窓のあいだに、
ゼラニウムの飾られた小さな街をぼかす。
車輪のまわる音はしずかな雨のなかに、
雨はきしる車輪のなかに消える。
われわれは墓地をながめ、
死のかすれたよび声を石のしたにもとめる。
すべてはそこにあり、
すべての喜びと苦しみはたちまちわれわれをそこに繋ぐ。
丘のうえの共同墓地。
煉瓦づくりのパン焼き工場から、
われわれの屈辱のためにこげ臭い匂いがながれ、
街をやすらかな幻影でみたす。
幻影はわれわれに何をあたえるのか。
何によって、
何のためにわれわれは管のごとき存在であるのか。
橋のしたのブロンドのながれ、
すべてはながれ、
われわれの腸に死はながれる。
午前十一時。
雨はきしる車輪のなかに、
車輪のまわる音はしずかな雨のなかに消える。
街に雨はふりやまず、
われわれは重たいガラスのうしろにいて、
横たえた手足をうごかす。
(「雨」全行)
詩のすべてが隠喩で出来ているように見える。「窓」と「墓地」の対比。このふたつは、ともに閉ざされて開かない奥まった場所である。その中にいる者は外の世界に出てくることはない。さりげなく置かれた「煉瓦づくりのパン焼き工場から、/われわれの屈辱のためにこげ臭い匂いがながれ、」という二行は、火葬場で死者の遺体を焼くことと、空襲によって街や人が焼けただれることの二重の隠喩であろう。また、この街にふっている「雨」とは、そうした死をひき起こし死を送り出す炎を消す雨であり、敗戦後の路上にさまよう人々の涙雨でもあるだろう。後半の「管のごとき存在」という箇所で多少のひっかかりを感じるが、それもつづく「橋のしたのブロンドのながれ、/すべてはながれ、/われわれの腸に死はながれる。」という三行を読めば合点がいく。この「管」とは「雨」が流れる水路であり、「死」という悲しみが流れる水路なのだろう。
このように「雨」という詩は、縦横無尽に隠喩を駆使した詩なのだ。こうした作風が「北村太郎詩集」の基調となっている。暗く重たい詩。だが、それに反して、後年の詩はどうか。
ことばを捉えようとして
声がこみあげる
息が詰まり
たとえばテーブルの瓶が
時間になる
窓のそと
シャツがはためき
街のかたちがふしぎにととのい
信号の明滅が
順調な過去のように見える
上膊が硬直し
米噛みがふくれ
どこか遠くの部屋で
ピアノの蓋が締められる
だれ一人いない
夏の海を思い出す
そのように
充実した無の感情の
波の
くりかえしが
椅子を取りまく地獄である
(「怒りの構造」全行)
第一詩集から六年後に刊行された二冊目「冬の当直」から冒頭の一篇である。これを読んでいると、何やら取り残された者の悲哀を感じる。世界はすべて順調に動いているのだが、自分だけはそれに同調出来ないでいるように見える。単なる独白と風景描写に終始しているようだが、そこには語り手の思いが一種のフィルターのようにかかっている。「街のかたちがふしぎにととのい/信号の明滅が/順調な過去のように見える」のだ。恐らく周囲のすべての幸福がにせもののように見えているのだろう。ここでは詩の言葉の中に隠喩を散りばめるというよりも、ひとつひとつはきわめて平明な表現でありながら、詩全体がひとつの隠喩となっているような構造を持っている。北村太郎の詩を読んで、言葉は易しいんだけど、全体を見ると難しいと感じるのは、詩全体が隠喩になっているからだろう。ひとつひとつの言葉で隠喩を語る作風から、詩全体で隠喩を語る作風へのシフトチェンジ。この作風はよっぽど詩人の肌に合ったのか、これ以降、詩人はこうした傾向の詩を量産していくようになる。
ねむることによって毎日死を経験しているのに
不眠症にかかるなんて
何と非人間的な苦しみだろう
毎日死を経験しないために
ほんとうに死にたいと思うのは
ごく自然ななりゆきだが
でも
死なないでくれきみがひとつかみの骨になるなんて
(「ハーフ・アンド・ハーフ」第一連)
詩はことばの病、とつぶやきながら
傘をさして銭湯へ
気になって
門に振りむく
生は死の病かな?
なまめかしいだけの木立ちがある
(「墓地の門」最終連)
それにしても、北村太郎の詩には何と多くの死が描かれていることだろうと思う。ここに引いたのは、前者は一九七八年の「あかつき闇」から、後者は一九八二年の「犬の時代」からだが、敗戦直後の最初期の詩と変らず、死を語りつづけているのには驚かされる。この詩人は死にとりつかれていたのではないかと思えるが、そのとりつかれかたも、激しく病的なものではなく、薄暗い諦念の中でぼそぼそとつぶやかれているという印象を受ける。年譜を見ると、家族の死があったり、自らも大病に罹ったりと、いやでも死を意識せざるを得ない状況にあったらしい。だが、そうした伝記的事実をぬきにしても、詩人のこの死へのとりつかれかたには胸を打つものがある。晩年の詩業の集大成であり、この詩人の到達点でもある一九八八年の詩集「港の人」では、その死への傾きと諦念が奇妙な明るさにまで高まっている。
おなかをこわす
からだをこわす
という
肺をこわす、とか
頭をこわす、なんていわない
どうしてかな、と考えながら開港資料館の前を歩いていく
ぼくの骨髄は
寒暖計で
それがきょうはずいぶん低いとおもう
水銀は腰のあたりか
うつむいて歩いていると
枯葉がすこし舞って、しつっこくついてくる
こんど恋人にあったら
魂、こわしちゃってね、っていってやろうか
つぶやきながら
枯葉をけっとばし
愁眉をひらく
検疫所のビルの八階に喫茶店があるのを発見したのは
あれは
冬の始め
きょうみたいな寒い日で
エレベーターを降りながら
いいとこみつけた、と喜んでいた
きょうも
そこへ昇って、にこにこしていよう
(「港の人 16」全行)
死とは固有名詞との別れであり
人名よ、地名よ
さようなら、ってことだ
ちょっとあの世にいる気分になれたな、とおもう
いいにおいもしたし
(「港の人 28」最終連から)
詩人・北村太郎はひたすら死をうたい、その奇妙に明るい孤独の中で、ゆるぎない独自の詩を書きつづけた。一九九二年十月、腎不全のために死去。享年六十九歳。
参考文献
「北村太郎の仕事1 全詩」(思潮社)
「現代詩文庫118 続・北村太郎詩集」(思潮社)
「北村太郎を探して」北冬舎編集部編(北冬舎)