洪水のあとに
道草次郎

今日、先年の水害で何もかもが水浸しとなった地区に行ってきた。路肩に植えらていた筈のマリーゴールドは尽く引き抜かれ、その代わりに黒い農業用マルチがのっぺりと施されていた。

ちょうど一年前だった。あの時の事を書く決心はまだつかないでいる。何度も何度もそこへ買い物に出掛けたモスグリーンを基調色としたホームセンターと、その横に併設されたスーパーは未だ復旧の見通しが立たないようだった。看板だけが虚しくも取り外され、そう古びてもいない廃墟へと様変わりしていた。

何軒かのラーメン屋と途轍もない大盛の炒飯を出す赤屋根の中華料理屋は営業を再開していた。それから、比較的速やかな復旧に成功したコンビニと交差路の角にあるガソリンスタンドだけは、嘗ての活気を殆ど取り戻しつつあるようだった。

卑猥な単語を堂々とその看板に掲げるショッキングピンクのアダルトショップだけは、何故か、きわめて元気よく営業していた。これまでこんなにも、電光掲示板に表示された「営業中」の字が自分に納得されたことはなかった。しばしその前で立ち止まってしまった程である。

むろん目的は他にあり、ぼくは歩を進めた。最近はなるべく歩くように心掛けていて、車をどこか適当な場所に停め、そこから小散歩をする事がよくある。歩いていると、車に乗っていては味わえない様々な発見がある。

沖仲仕の哲学者として知られるエリック・ホッファーという人の自伝本を、ぼくは先だって図書館で借りた。その図書館は水害のあったこの地区を見下ろす高台に位置しており、その白く瀟洒な佇まいはいつもどこか場違いな雰囲気を周囲に放っていた。

ホッファーは歩く人だったらしい。彼は20代後半の頃に経験した自殺未遂を契機にして季節労働者の道を歩き始めるのだが、これは文字通りの意味だったらしく、たしかどこかの箇所にこのような事を書いていた。
「自殺に失敗してふらふらと街をさまよいそのままの足取りで私は歩き始めた」
歩いて歩いて歩いて、その先にある歩いている自分の快さみたいなものを発見しながら歩き詰めに歩いた、そうだ。そして、人生の新しい局面へ乗り出したのだと、ホッファーはその本で語っていた。

これに自分を比すわけではないが、最近ぼくは歩きながらたくさんのことを考えたり、道端の花を眺めたり、鳥の囀りを聴いたりしたいと願うようになった。

この日の目的は、去年の水害で流されたたくさんの大事なものの跡にニョキリと生えてきた、とある新店舗へと行くことだった。
ワークマンプラスである。
このワークマンプラスでぼくは、来月から行くことが決まった職業訓練で必要となる作業着と靴とを買うつもりだった。

店内に入ると気取らない二人の若い女性店員がいそいそと働いていた。メモを手に段ボールや靴下の入ったビニール袋の前を行ったり来たりしていた。
客がぼく一人だったこともあり、少々気後れしている所に、いきなりBGMからあいみょんの『裸の心』が流れてきた。
昨晩ちょうどYouTubeであいみょんの『マリーゴールド』を聴いていた時、そのミュージックビデオに紐付けられて再生されたのがこの『裸の心』だった。たまたまそれを知ったにもかかわらず、その時は二度聴いた。歌声が良くて、少し気になりかけていた。
だから、ぼくがワークマンプラスの真新しいLED電灯の真下でしばらくの間あいみょんの歌声にさらされていたのも、偶然のようでありながら偶然でない気も少しした。

心を揺さぶる何かが、そのいくぶん嗄れた歌声によって齎されたのは否定できない。あいみょんがそんなに良いかと言われれば、そうでもないような気もするし、やはり良いような気もする。いずれにしろ、その感動がぼくには少し恥ずかしく感じられた。店内には、僕以外にはせっせと仕事に励む真面目な女性店員が二人いるだけだった。
あいみょんが若いということはなんとなく知識として知っており、その事がぼくの先入見を形作ったのか、あいみょんの歌声に感動させられるのは何か不当な事のような思われた。

適当なのを二、三見繕って支払いを済ませ店を出ると、外は既に曇り始めていた。来た道を戻り始めたぼくの胸に去来したのは、相も変わらずにその不当さだった。ぼくはこの不当さを持て余しながら歩を進めた。破壊し尽くされたと言っても過言ではない林檎園や、全機械オーバーホールの憂き目にあったであろう小さな建設事務所のテナント募集の看板を横目に、どこまでもどこまでも行くつもりでぼくは歩いた。

あいみょんによる不当さはやがて汗とともに和らぎ、交差点の信号で立ち止まったぼくの視野の隅に一匹の蜆蝶が入ってきた。蜆蝶は頼りなくチロチロと舞い、路側帯の下に生えている名もなき雑草にとまった。

その時なにかが起こったわけではない。ぼくはただその蜆蝶を眺め、果たして今まで自分はこの蜆蝶というものを間近でじっくりと観察したことがあったろうかと考えていただけだった。あれから一年が経過し、街は少しずつではあるがその力を取り戻しつつありそこを離れていた人々もまた土地に戻りつつある。

ここ一年でぼくの胸に堆積したものはなんだったか。いくつかの別れと決断と誕生が、そこにはあった。今のぼくにはまだ、こういう時に惹起される感情や、表現されるべき何事かをうまく書き表すことができていない。いつかそれを書ける日が来るのかそれとも来ずに生涯を終えるのか、それはまったくと言ってよい程に分からない。

それにより締めくくろうと目論見かけていた破壊と再生の暗示もすでに失われた。今、此処には美しい星を散りばめた夜と、まだ冷めやらぬ幾つかのほとぼりが在るばかりだ。
そして、不確かな扉の向こうにも、また新しい星々と熱とが待ちうけており、それを安んじて受け容れる他は無いのだという清潔な予感だけがあるのだった。


散文(批評随筆小説等) 洪水のあとに Copyright 道草次郎 2020-09-17 23:00:45
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