野菜雑感
道草次郎

なんでトマトは天気がいいと甘いのだろう。先月までの長雨の時は実ばかりが立派で味はすっぱかった。晴天がしばらく続くと決まって甘くなる。でも、その代わりに皮が硬くなって食べすぎるとお腹をこわす。ハウス栽培のトマトが甘いのは何故なのかがいまだに分からない。朝晩と陽気な音楽でも聴かせているのだろうか。トマトに演歌ばかりを聴かせたらトマトはどんな味になるのだろう。食べたら妙にシメっぽくなるトマトなんてあんまり売れないだろうな。とにかく、農家の人だけが知っている秘密というのは、これはたぶんあった方がいいのだ。


それからアスパラ。雨がザーザー降った後、嘘みたいにピカっとお日様が昇った朝のアスパラなんかは、すごい。これからぐんぐん伸びてやるぞという気概に溢れている。ポキッと根方から折ったのを水に浸しておいてやると、かなり長いあいだ元気なままでいる。かたや、折られた側の片割れはその断面に白いボンドのような皮膜を作る。太陽の下で硬くなった皮膜はアスパラのこれからの可能性を保持するため、人知れず防疫と防水に勤しむことになる。


茄子といえばトゲだ。あのいまいましいトゲさえなければ黒紫に輝くあの優美なフォルムは、美人野菜コンテストのミス野菜に推薦したいぐらいだ。軍手をはめて収穫するとけっこう痛い思いをするので、一度スキーの手袋を使ったことがある。その時はなんだか拍子抜けした。たしかに楽々と収穫できるのだが、これじゃあんまり簡単すぎて有難みがわかないのだ。やはり茄子は素手だと思った。トゲの仕掛け罠を縫うように剪定バサミをくぐらせその細い切っ先を蔕に突き立てる瞬間が茄子だよ、と誰かに言ってみたい。


人参の葉っぱは食用にもなるがアゲハ蝶の幼虫もこれを好む。何度かアゲハ蝶の幼虫と人参の葉っぱの争奪戦を繰り広げたことがある。彼らはたいてい早朝に姿をあらわす。驚くべき縞模様、目が覚めるような鮮やかな色彩。そしてあの美しい蝶へと変態を遂げる存在が彼らなのだ。割り箸という便利なものがある。成体への羽化の可能性ごと彼らを土に埋めてしまうのはたしかに忍びないが、こちらだって譲れない。朝の静けさの中で黙々と行われる殺戮は、それはあまりにも謐かではあった。


野菜を育てていると、野菜はひとりでに育っていくということしか感じない。草を刈って風通しを良くしたり、水をくれて枯れないようにしたり、そんなことは、じつは人間のほんの少しの都合の為で、長い目で見れば野菜は勝手気ままに育っていく。そんな野菜の生き方を虫も鳥も知っていて、舞い降りてはその種を拝借していくし這っては気分次第にその葉の形を変えていく。

何が起きても野菜はじつにあっけらかんとしていて、枯れてしまうものは枯れてしまうし、失われたものは失われたまま、そのままだ。やがて何もかもが土に還りまた新しい芽を吹かせることになる。その繰り返しが季節の移ろいのなかに織り込まれていて、人間はチョロチョロとその周辺をうろついる。野菜はいつも黙って人間のなすがままだ。

先程からずっと凄まじい夕立が続いている。ぼくの住んでいる長野県では最近、雷が多発しているらしい。県内だけでも昨日は八千を越える落雷が確認されたそうだ。

恐るおそる個室の小窓から畑の野菜の様子を覗いてみる。激しい横殴りの雨のなか、トマトと茄子とキュウリの頭がかすかに視えた。野菜たちはゆたかに茂らせたざんばら髪みたいな葉っぱを思う存分に上下させていた。まるでヘッドバンギングみたいだ。せわしなく動くワイパー越しに現れ出た事故車輌をうかがうような気分で、ぼくはそれを見ていた。

そこには子供のような自由と喜びの感情があった。ぼくは私かに感嘆し、少しだけ卑屈な気分になる。そして、カーテンを閉め屋根のある人間の生活へと戻るのだった。



散文(批評随筆小説等) 野菜雑感 Copyright 道草次郎 2020-08-24 18:32:58
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