クズの夕暮れ
道草次郎

風鈴の音が朝から鳴っていて、それがすごく五月蝿く感じられる。だいぶ焦っているようだ。

自分の人生を台無しにしてしまうことを今までたくさんしてきた。いい大人なのに嫁や母親に頼んで会社に休みの電話を入れて貰ったこともある。さすがに呆れられていつかは人事課長から咎められたりした。でも最後にはうつだからしょうがないかということで、そこまで厳しくは追及されなかった。妻はそんなぼくの情けない様子を、度々自分の母親に漏らしていたようで、ひと月ほど前にいきなり電話が掛かってきた。さんざん責められ挙句、妻を子供もろとも引き取ると吐き捨てられて電話を切られた。

会社に辞表を提出してからしばらくして、その義母から、子供の為に頑張ると言っていたのにあなたは無責任なクズ男だという内容のLINEがきた。うつと言っていればすべて許されるなんて甘い考えだとは以前にも電話で言われたのでさして驚きもしなかったが、そのLINEの文面が発する讒訴のごとき異様な雰囲気にしばらくは何も手が付かなかった。

数日後にはアルバイトも辞めた。もう、死にたかった。兄にLINEでウィトゲンシュタインや永井均から借用した浅知恵で、独在性がもたらす倫理の消滅や魂の実在の有無などについての一方的な長文を送ってみたりもした。兄もうつ病を患っているので、それに対してやっとかえってきた返信は、いくつかの単語の定義についてだけであった。

ぼくは明日さえももう定かではない。まだ3ヶ月の子供がいるのに仕事を探す気にもなれず、一日中ずっと布団やソファで横になっていることを妻が知ったら、どれほど恐ろしい軽蔑の目で見られるか分からない。軽蔑が何よりおそろしいのは、それが自分の中に眠っている醜い感情を呼び起こすからだ。

朝からたびたび小椋佳の『愛燦燦』を聴いている。良い歌だ。普遍性がある。それを言ったらぼくの人生だって普遍性はあるだろう。ぼくみたいな人間がそう珍しくないことぐらい分かっている。そして人間などというものは大してそう変わらないということも。

だったらなぜ、ぼくは自分のことを『愛燦燦』のように受け入れられないのだろうか。それはたぶん、『愛燦燦』がよくできた作品だからだ。人間が自分の人生を作品と見なしてしまったその瞬間からおそらく堕落は始まるのだ。したがって人間は現実においては自己を見る目は厳しくならざるを得ず、その反動として芸術作品に何らかの代償を求めることになるのだ。

今日も無為な一日を過ごしてしまった。そんないつもと変わり映えのしない悔恨だけが、コオロギの鳴き声に紛れて意味もなく転がっている夕暮れであった。


散文(批評随筆小説等) クズの夕暮れ Copyright 道草次郎 2020-08-20 01:31:55
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