ラブレター
道草次郎
君と二人で卓球室と呼ばれる閉鎖された7組の教室の掃除をした時、君は14歳で、ぼくもたぶん14歳だった。
ぼくは君のことが気になっていたね。すごく可愛かったし、頭がよかった。国語ができていつも満点近い点を取っていたね。
君は図書館でたくさん本を借りて、休み時間は文庫本を読んでいた。
ぼくはその時は本など読んだことはなく、君がぼくの知らない漢字や作家の名前をすらすらと言う度に君のことが好きになった。
ぼくはスポーツばかりやっていた。サッカー部のキャプテンで、学級委員で、少しぽっちゃりしたひょうきん者だった。
君は運動着のまま箒を手にして、掃除の時間もぼくのことをからかったりした。可愛い弟か年下の甥っ子をおちょくるみたいに。
君のお父さんは大学の先生だったかな。それとも高校の古文の教師だったかな。そんなことも忘れてしまったけど、とにかく君は文章を書いたり読んだりするのがよく出来た。
ぼくはクラス対抗バレーボール大会の時の君に見とれていたことを白状するよ。揺れる胸元につい目がいってしまったこともやはり白状する。そして下校途中、他の男に取り囲まれた君に声をかけられず惨めな気分だったのも白状する。もちろん、嫉妬もね。
君はいま、どうしているんだろう。ぼくが中学二年の夏、なにもかもヤになって学校に行くことをやめてしまってからは君とは一度も会っていない。
ぼくはあの夏から変わってしまった。
もうあまりに昔のことで変わってしまったことも忘れるほどだよ。
ぼくはあの夏はじめて1冊の文庫本を買った。トルストイだよ。内容は覚えがないけど、とても大事なことが書かれている気がして、ノートいっぱいそれを写したものだ。
君は学校の先生になったのかもしれないね。それか、とても不幸な女にでもなったのだろうか。
ぼくはいま、こうして無職で、たびたび思い出すという作業を自分に課している。
小林秀雄が、よく思い出すことが必要だと言っていたね、たぶん。これは正確ではないかもしれないけれど、人はたぶん、ある作家が言った言葉を文脈通りにしか援用できないなら、それはとてもつまらないことだな。
ぼくはいま、よく思い出すことをしたい。
小林秀雄が言っていたことをちょっと拝借して、卑近な自分の人生体験に当てはめてみる。そんなことが、まあぼくの落ち着いたところさ。文学が、というより本がぼくもらたしてくれるものはこういったことだ。
君は頭が良いからきっと笑うかな。でも、たぶんこれは想像だけど、君も年をとったから、あいまいであることや生活人にとって大事なことのいくらかはよく身に染みているはずだ。
ぼくは、感傷はいらない。
ぼくは思い出すことによって、はじめて僕自身のくらい階段に降りていけるというだけ。
この始末に困る恋文はどうぞ捨てて下さい。
けれどもどうか、階下を照らす松明にそれをくべてほしい。
ひととき燃え上がることで行先を照らす道しるべとはなりうるだろうから。