ミルキーウェイ~宮沢賢治と夜に捧げる
道草次郎
ぼくらがその時住んでいたアパートは二階建てで、二階のちょうど真ん中の部屋がぼくらの住処だった。
深夜一時半、月が白々と全てを明るく照らし出している夜の中へ、ぼくはひっそりと出ていくことにした。
先程の物音の出処を確かめに行くつもりだった。
あるいは、この何もかもが明るみにある満月の下の世界を探検するために。
パジャマの上から薄いパーカーを羽織って音を立てないよう慎重に玄関を開け外に出ると、しずかな風が吹いていた。
階段を降りてアパートの脇を通り、狭い路地をほんの十メートルほど抜けたすぐの所に、川が流れていた。
川べりづたいに繁茂している薮の辺りに、懐中電灯の明かりが二つ、チラチラと交差しているのが見えた。
その光を見た瞬間からぼくの胸はバクバクと鼓動し始め、理性ではコントロールの利かなくなった何ものかが身内を駆け巡るのを感じた。
いつの間にか無意識のうちに足音を立てないようゆっくりと歩を進めていた。
「おい。はやくせい。そんなもん後でいんだ」
だいぶ歳を取った男の声が聴こえた。
ぼくは物陰に身を潜めてしばし耳を傾けてみることにした。
「わかてる、わかてる。荷台、つめるか?」
今度は老婆の声だった。
嗄れていて男の声と聞き間違えそうになったが、よく聴けばそれは紛れもない年配女性の声だった。
二人はどうも争っているというよりも、様子から察するに普段からいつもこんな調子みたいだった。
その口振りといささか緊迫した様子から、どうやら二人の老人は夜陰に乗じて何らかの不正を働いているのかもしれなかった。
それを直感したのは勿論ライトの明かりを目にした瞬間ではあったが、実感として感じ始めたのは意外にも自動販売機の近くまで来た時だった。
ぼくの胸は依然としてドキドキしていたが、あの二人が別に怖いというわけではなかった。
それよりも、その時ちょうど川面に偶然現れた数匹の蛍の舞に注意をとられていた。
ホタルは清流にしか棲息しないはずではなかったかとか、そんな事ばかりが頻りに頭に浮かんでくるのだった。
ホタルを近くで見たい衝動に駆られ半ば無意識に川の前の歩道に踏み出したその時、うっかり小石を蹴ってしまった。
その音が二つの影の動きを、一瞬、凍りつかせた。
その一瞬がぼくには永遠のように感じられた。
また、その永遠がずっと続いてこの夜を永遠の中に閉じ込めてくれはしまいかとも切望した。
しかし勿論それは長くは続かなかった。
「は、はやくせい、いぐぞ。おい、いくぞって」
そう言うと、二つの影はそそくさと手にしていた何かを懐にしまい、近くに乗り付けてあった軽トラで何処かへ行ってしまった。
ぼくはしばらく茫然としていた。
川辺にはすでに三匹ほどのゲンジボタルが屯してきていた。
手にしていた懐中電灯の明かりをさっきまで二人がいた薮の方に向ける。
そこには細かな木屑と幾片かの材木が無造作に転がってるだけだった。
ぼくは意識的に川辺の茂みの暗がりを見つめた。
目が闇に馴れるまでずっとずっと。
そのあいだ心に立ち現れてくるものは何も無く、ただ静かな真夜中の風が耳の脇を流れるのを感じただけだった。
やがて目と闇とが統一して意識そのものの姿が眼前の暗闇に具象化するのではないかと思えたその時、ふいに天を仰いだ。
ぼくは息を飲み、思わず震えた。
ミルキーウェイと呼ばれる我々の銀河がそこには在った。
じつにありありと、息づくように輝きながら。
それは本当に乳を流したかのようであった。
紫がかった暗幕の上に横たわる美しい宝石のようにそれは存在していた。
ぼくは鼻から息を吸った。
吸い込まれた空気には、酸素と多くの窒素、それから少しの二酸化炭素などが含まれているのだろうが、その時はたしかに感じられた。成分として含まれるもののうちの一つとして、銀河もまたそこに含まれるだろうことを。そして、この瞬間に於いては、地上のあらゆる罪や煩いなどというものは、化石層の下に埋もれる陰影に過ぎないのだということを。