帰郷
ただのみきや

 祖父の無線アンテナが世界中から不幸を手繰り寄せていた
朝はもう昔だ。ツユクサやイヌノフグリに覆われたあの土の
盛り上がった一角、あそこが祖父を埋めた場所だと、誰から
教えられた訳でもなくずっとそう想っていた。

 曇りの日は朝から鏡ばかり見ていた。鏡の中の自分の匂い
を嗅いでいるうちにいつもキスしてしまう。ある日いつもの
ように夢中になっているところを近所の年長の男の子に見ら
れてしまいよくわからない怒りが激しくこみ上げてきた。体
が火照って高熱が出てそのまま二日間も寝込んだしまったけ
れどその間に随分背が伸びたのだ。

 大雨が降ると魚たちが雨を伝って屋根にまで上がって来る。
それを捕まえようと虫取り網を持って出かけてずぶ濡れになっ
たものだ。僕のことを母親は「きょげんへき」とか「もうそ
うへき」とか誰かれ構わずこぼしていた。僕は頭や心に浮か
んだ面白いことを素直に言葉にしただけで時にそれに従って
行動さえしていたが、ごっこ遊びというより見えない手や聞
えない声にサワサワ撫でられ誘われているようで別段芝居を
しているという訳でもなかった。でも回りの子供たちもそう
変わらなかった気がする。子供たちは時限爆弾を仕掛けられ
たままそれと気づかず楽しげに駆けて往くもので、夏にはア
イスキャンデーを膝に垂らしながら自転車をこいで埃と陽炎
に捲かれてどこかへ消えてしまうし、瓜みたいに人目の届か
ない淵で冷たく浮かんでいたりもする。曖昧で死にやすい存
在だった。

 祖母と祖母のラジオはよく似た声でしゃべった。納屋で祖
母は良く何かの種を選別をしていた。
 時々祖母は一つの巻貝の殻に何かつぶやくともう一つの貝
殻を耳に当てていた。ある日なにをしているのか尋ねると白
濁した眼を少し傾けて「遠いところと話しているんだ 糸よ
り細く捻じれた水の道があって…… 」そんなことを言って
いた。
 祖母は海辺で生まれ育ったと言う。祖父と結婚してからは
山に囲まれた暮らしをもう六十年以上続けている。祖母は水
と良く話をしていた。祖母のからだはカサカサに乾いた魚の
皮のようだったから、水を張ったたらいの前に屈んでいるの
を見ると、祖母のからだはもうとっくに死んでいて陽射しと
戯れる煌びやかな水こそが祖母なのではないかと想われた。
そうして僕が想うことはそうなった。祖母の声はラジオのノ
イズだったがその指先の浸透性は高く時折僕のからだに指で
何か文字を書くのだが、そのたびに僕は卒倒、悶絶、おしっ
こを洩らすほど笑ったものだ。後に聞いたことだがそれはま
じない一種だそうで祖母は僕が山に呼ばれてしまうことを警
戒していたらしい。

 母は漢字を全く用いない人だった。漢字を使わなかったの
か書けなかったのかは今でも定かではない。彼女の網膜には
いつも灰色の電車が映っていた。停止することのない特急列
車をひらがなだけで引き留めようとして、母は何度となく白
線を越え何度となく巻き込まれ死体になった。わたしは母の
死体を見たことはない。ただ一度だけ和服を着て出かけて往
く母の後を追って行ったことがある。駅のホームを電車が過
ぎるその瞬間母が擦り寄ると、綿毛や羽毛のような無数のひ
らがなと白粉が風に捲かれ――駅員に勧められたがその時も
死体は見なかった。たぶんこれからも見ることはないのだろ
う。

 父の記憶はない。記憶がないということは存在しないのと
同じだ。始めから無いものならいかようにも想像して良い訳
で、僕は僕の父をデザインして遊んでいた。
 父は僕が母の胎に宿ったころ山に入って身を隠した。山に
呼ばれた訳でもなく精進潔斎のためでもない。かと言って猟
や山菜採りでもなく、単にこの社会から逃げ出すための入山
だった。
 その男は蝉や郭公の声を聴きながら一枚ずつ正気を脱ぎ捨
てる。羞恥の最後の一枚を脱ぎ捨てて欲望だけになった男の
肌に蛭の音符が張り付いて往く、脳天に刺さる逆さ円錐の太
陽と腐葉土の熱い吐息の中でひとつの交響曲が生まれるのだ。
視神経が琵琶のように鳴る。すると幻影たちが現れて問答が
始まった。豆鉄砲による一斉射撃で射精し続ける男は小児愛
者で会社員でマルクス主義者で修験者でパチンコ依存症で小
説家志望で特攻隊の生き残りで占い師で指圧師で馴染みのホ
ステスを嫉妬からカラオケマイクのコードで絞殺したまま家
族になど目もくれず入山した一筆書きの蚯蚓だった。
――こうして書いてみると僕がいかに不在の父を憎み、また
慕いもしていたかが解るというものだ。今も下腹部に血の滲
むような痛みが走る。
 僕は登山道から笹深い斜面に入り山奥の遊園地へ父に会い
に行く。樹齢数百年もありそうな巨木に囲まれて苔生した岩
が並ぶところ、蔓に絡まった白骨がぶら下がっていた。すっ
かり乾いていてすこぶる機嫌のよい表情だ。いくつもいくつ
も胡桃や楢の実をぶつけてみた。「父さん、あなたとセック
スしなくて本当によかった。」

 僕は君という耳なりと棘を今も身に引き受けたままだ。あ
の日の祈りは雨に包まれて瞑ったきり。
《いつまでも一緒》そんな約束を仕舞った小箱を一本の並木
の根元に埋めて、その幹にナイフで印を付けた――それより
前に鳥の翼を片方切り取って土に埋めたことがあった。何年
か後に掘り返せばきっととても緻密な白い骨組みが見られる
だろうと思ったのだ。僕はそれを奇麗に磨いて壁に飾るつも
りでいたがすっかり埋めたことを忘れてしまい、思い出した
時には埋めた場所が解らなくなっていた――もうあの並木は
すっかりなくなってしまっている。
 君の爪は花びらのようで口に含むと茱萸ぐみの味がした。君の
失くした青い釦をさがして透き通る小川を覗き込むと僕たち
は驚くほどよく似ていてそれが面白かった。二人で違う色の
花を互いの耳の辺りに飾ったりそれをとりかえっこして遊ん
だりもした。あの日きみが宝物だと言って見せてくれたジャ
ムの空き瓶に入れられたやわらかな舌と黒い蟻は今も夏の陰
影に縁取られ現実を越えた現実として僕の一部になってる。

 祖母の前掛けから頭を出した花鋏が奇妙な土偶のように見
える。草の汁と鉄の匂いが僕の鼻もちょん切るようで怖かっ
た。祖母はわたしの口に黒砂糖を一かけら入れてくれた。初
めて口にしたそれはとても美味しかった。黒砂糖という響き
から想像したのは黒い宝石みたいなものだったがそれが土や
糞みたいな塊だと知った時はがっかりした。あの時すでに僕
には指が一本足りなかった。なぜ指が足りないのか尋ねると
祖母のラジオは黙ってしまった。納屋には秘密が出入してい
る。その証拠に戸は誰もいなくても開いたり閉じたりしてい
たし祖父の時計はいつも湿気で曇っていて時間がよくわから
なかった。だがそれは祖母の顔も同じでじっくりと観察した
ことはなかったのだ。ふと僕の指はあの鋏でちょん切られ祖
母に食べられたのではないかと想った。理由は特になかった
が想うことから現実は始まるのだ。

 朝ごはんがまだだった。本当は今すぐ真っ白い牛乳を全身
に浴びて石膏のダビデ像みたいになりたかったけど、子供に
とっては分厚い本から一行の言葉を見つけ出すみたいに時宜
にかなったことと自分の欲求がひとつに合うことなんて不可
能に思われたから、おとなしく赤ん坊になって祖母のたらい
で瓜のように洗われていた。すると祖父が鉈をもって入って
来た。祖母の鉢からは海の蔓が伸びて来る。――海の神と山
の神が子供の肉を奪い合う――そんな迷信を魂に刺青された
ままで唯物論を唱えロケットにも乗ればミサイルも撃てるよ
うでなければ大人にはなれないとラジオは言った。おまえは
子供から一足飛びで老人になるのだと時計が鳴った。だから
何だと言うのだろう。僕は今でもあのガラス壜の中の舌を見
ている。蟻が増え痩せ細って往く舌。ああ文字の増殖が僕を
唖者にするのだ。
 どうか僕を見つけてほしい、そうして僕などどこにも居な
かったことを証明してほしい。黄金週間に僕はやっと帰郷を
果たした。女であることを辞して男になったことを君と架空
の家族へ伝えるために。僕の故郷はこの白紙なのだ。

「ここは昔 一面のれんげ畑だった」 父の影が言う




                    《帰郷:2020年5月31日》










自由詩 帰郷 Copyright ただのみきや 2020-05-31 17:11:17
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