憎悪に似た朝
墨晶
掌篇
程なく、真夜中だった。
「ねえ 寺院の鐘が こんな遅くに」
「蜂起だ 外は危険だ」
「みんなどこへ行こうとしてるのかしら」
「鎧戸を閉めるんだ 俺たちは関係無い」
それぞれの事柄が終焉を迎える。仕方がないことだ。誰もが、何もかもがそうなのだ。
髪を掻き上げようとしたとき、掌がガッシリと髪の束に捉えられ、動かなかった。一瞬、世界が反転したような感覚だった。壕の内部は灯油ランプの油煙に満ちていた。俺たちは何日熱い湯を浴びていないだろう? 俺たちは何日外を歩いていないだろう? しかしそれよりも、俺たちは互いに云い出しかねていた。何かを。
女は燐寸を擦り煙草に火を点けた。卓子に投げた黄色い鳥が描かれた燐寸箱は、もう中身は僅かしか残っていない乾いた音をたてた。
「いい加減にしろ」
「いいじゃない 何よ今更 あたしたち もう」
「云うな!」
女の吐く烟と息が見分けがつかない、凍えるような室内だ。
ラジオのざらついた声が独りごとを云い続けている。少しでも意識を誤魔化そうと苛立ちながらダイヤルを廻した。
やっと、遠く切れぎれに、音楽が。
細部を欠いた記憶、映画 "Salò" の終幕場面を手繰り寄せる。
そうか、エンニオ・モリコーネだ。
「お腹空いたわ」
「状況を考えろ」
云ってしまってから、考えが変わった。女は俯いていた。
俺たちの存在など、鼠と何ら違いは無かったのだ。
「悪かった」
ヌイユ・ド・サラザンが僅かにあった筈だ。闇の中、壕に運び込んだトランクからガス缶、鍋、水の入ったボトルを取り出す傍で、女は隅のギャトー・ド・リ数個を指さし、
「あれはあしたに取っておきましょう あしたがあればのはなしだけど」
と、云った。
そう云う最後の晩餐だった。
Fin.