絆創膏と紙コップ
ホロウ・シカエルボク
冴えない中年サラリーマンが、仕事帰りの屋台で誰に聞かせるともなく呟いている愚痴みたいな雨が、途切れることなく朝から降り続いた夏の夜だった。じめついた空気に我慢がならなくなって、眠るのを諦めて服を着替え、街に繰り出した。傘が必要なほどの雨ではなかったので、持って出なかった。ひどくなるようならコンビニに飛び込んで買えばいい。酒を飲むことしか楽しみがないこの田舎町の夜では、のんびり腰かけてコーヒーを飲むような店はまず見つけられない。家賃を浮かせるための、カウンターだけの狭い店が並ぶ飲み屋路地を歩いて、何度か飲んだことがあるバーのドアを潜った。まだ早い時間だったので、客は俺だけだった。若いころはこの街にも一軒だけあったディスコの店員だったというバーテンは、和製グラム歌謡が流行っていたころにテレビでよく見かけたバンドのフロントマンによく似ていた。社交辞令的な挨拶を二言三言交わして、小さいが分厚いクッションのついた丸いスツールに腰を掛けた。バーボンに氷を浮かべてもらって、小さく流れているフレンチポップスを聴きながらぼんやりと飲んでいると、半時間ほどして一人の男が店に入って来た。俺より十は上だろうか。地味だが着心地の良さそうなスーツを着た、小柄なわりにがっちりとした体格は、柔道でもやっているのだろうかという印象をこちらに与えた。彼は俺の二つとなりの席に腰を下ろし、同じように紋切り型の会話を少しだけして、水割りを注文した。それを一口飲むと、ビジネスバッグから紙コップを取り出して自分の正面に置いた。紙コップの中には何かが入っていた。薄暗い照明の下でよく判らなかったが、絆創膏のように見えた。男がどうしてそんなものを出したのかよく判らなかった。テーブルマジックでも始めるのかと思ったが、そんな雰囲気でもなかった。俺よりも少し早いペースでグラスを傾けながら、男はそれをずっと眺めていた。時々男の方に目をやっていた俺は、ふいにこちらを見た男と視線を合わせてしまった。男は気を悪くしたふうでもなく、笑顔で会釈をしたので、反射的に返した。
「娘が成人して、嫁に行くんですよ。」
これは、幼い娘との思い出の品なんです。紙コップを手に取って男はそう言った。それはおめでとうございます、と俺は返した。ありがとうございます、と男は嬉しそうに笑った。
「可愛い娘でした。親バカかもしれませんが、目鼻だちのくっきりした、母親似の顔でね。自慢の娘ってやつですよ。二十年間、ずっと可愛い娘のままでした。とうとう、家を出て行くんですよ。」
男の話し方にはどこか違和感があった。すべてが過去形だったからかもしれない。だけど、そんな話し方の癖は珍しいものでもないし、第一お互いに酒を飲んでいるのだ。気のせいだと言えばそれで済む程度のものだった。ぼくには子供は居ないけれど、と俺は話を続けた。
「嬉しくも寂しくもあり、というものですかね。」
男は大きく頷いた。
「連れはすでにあっちに行ってましてね。ひとりぼっちですよ、この歳で。」
俺はなんと返せばいいのか判らず、それはそれは…という感じの曖昧な返事をした。ジェーンバーキンとセルジュゲンズブールの悪名高いポップスが流れていた。
「お仕事は何をされているのですか?」
暗い会話になってしまったことを気まずく思ったのか、男は突然話題を変えた。小さなレストランのコックです、と俺は答えた。
「私も昔やってたんですよ。」
それからしばらくは食いものの話に花が咲いた。水割りを二杯飲んで男は帰って行った。俺も同じものをお代わりして、それをゆっくりと空けてから帰った。
翌日の午後のことだった。午前中の営業を終えて、急遽必要になった食材の買出しに行った帰り、大通りの交差点で激しいブレーキの音を聞いた。砂袋が投げ落とされたような鈍い音が続いて、遠い横断歩道の端に野次馬が集まった。スマートフォンのカメラのシャッター音がいくつか聞こえた。事故か。そんなものを気にしている暇はなかった。急いで店に帰って、午後から夜までの営業の支度をしなければならなかった。
それからしばらくはどんなことも起こらなかった。俺は毎日店に出かけ、時々何をやっているんだろうと思いながら大量の食材を温めたり切り刻んだり捨てたりした。何をやっているんだろうという思いにとらわれないくらいの経験は積んでいた。人生にはあまり意味を求めるものではない。日常に転がっていることの大半には大した意味はない―まあ、そんなことどうだっていいことだけど。浮かれた夏に人々が疲れを見せ始めて、風が少し涼しくなり始めた秋のはじめ、俺はまた気まぐれにあのバーに顔を出してみた。ああ、とマスターが笑顔で会釈した。スツールに座って、注文をし、ぼんやりと飲んでいると、マスターが話しかけてきた。
「このまえここでご一緒したお客様のこと、覚えてます?」
紙コップの?と俺が言うと、マスターは頷いた。
「あの人がどうしたの?」
亡くなられました、とマスターは言った。え、と俺は驚いて返した。
「いつ?」
「ここであなたと話した次の日ですよ。車に飛び込んでね。自殺です。」
「すぐそこの交差点?」
「そうです。私はここで人に会う約束があって、昼から出て来ていたんですよ。たまたま目撃することになってしまって。」
「そうなんだ…。」
奇妙な感覚だった。別に知り合いというわけでもない、少しここで話をしただけの、名前も知らない男。けれどあの時は確かに生きていて、俺と言葉を交わしたのだ。少ししょぼくれてはいたけれど、ひとりぼっちになったからって死を選ぶような人間には見えなかった。それは実に奇妙な感覚だった。情報は非常に少ないのに、死という絶対的な事実だけが自慢気に伸し掛かっていた。
「娘さんも可哀想にね。」
ん、ん、とマスターが奇妙な相槌を打った。なに?と俺は聞いた。
「あの人の娘さん、亡くなってるんですよ…五歳の時に。」
「どういうこと?」
「彼の車で家族旅行に出かけましてね。母親は仕事の都合で後に合流することになってました。高速道路で、酒気帯びのトラックがおかしなタイミングで車線を変更して…運転席に激突して、彼は大怪我を負いました。娘さんは助手席に居たので、かすり傷で済んだのですが、ドアを開けて外に飛び出して、後続車に撥ねられました。手当をしようとしたのか、意識を失っている彼の横には、水の入った紙コップと、絆創膏が置いてあったそうです。自分の手には負えないと思って、助けを呼びに行こうとしたんでしょうね。」
俺は飲むのも忘れてマスターの話に聞き入っていた。「娘が成人して嫁に行く」と笑った彼の顔を思い出した。おそらくあの日は、「生きていれば二十歳」の誕生日だったのだろう。
「ようやく意識が戻って、傷が治ってから彼は娘さんのことを聞かされました。退院してからたまたま、愚痴を言いに来たのがこの店でしてね。そのときにそんな話を、聞きました。」
俺は黙って頷いた。
「それから何度か辛くなるとここに来て飲んで行かれたんですよ。何年かして奥さんが病気で亡くなられたときに、『娘が二十歳になるまでは生きる』って言っておられました。」
マスターはそこまで言うと、ひとつ大きな息を吐いた。
「その時もだいぶん飲んでおられたし…酔った勢いでのことだと思っていたんですけどね。」
マスターの気持ちは充分理解出来た。けれど、そんなことがなんになっただろう?仮にあの男が、娘の二十歳の誕生日が終わったら自ら命を絶とうと考えていたところで、マスターや俺に何を言うことが出来ただろう?そんなことどうすることも出来ない。出来ないし、それほどの繋がりもないだろう。こんなことを言うと冷たく聞こえるかもしれないけれど、と俺は前置きして、言った。
「あんまり気にしないことだよ。彼の気持ちなんて俺たちには到底理解出来ない。」
マスターは少しだけ首を横に振った。違うんですよ、と、小さな声で言った。
「なんだって?」
「彼に、最後まで聞けなかったことがあるんです―その、トラックの運転手っていうのは、私の兄なんですよ。」
俺は驚いて声も出せなかった。そんなこと本当にあるんだな、そんなふうに考えていた。
「あの人は知っててここに来たのだろうか、すべて判っていて、私に被害者としてのその後のことを聞かせに来たのだろうか。どうしても聞けなかった。どうしても…。」
話はそれで終わった。味が薄くなった酒を飲み干して、俺は店を出た。高い空に小さな月が出ていた。星はネオンライトに隠れて、ほんのわずかしか見て取ることが出来なかった。客待ちのタクシーがたくさん並ぶ通りを抜けて、家へと続く小道へと歩いた。たくさんの見知らぬ死が少しの間まとわりついていた。けれどそれも眠ればきっとどこかへ行ってしまうだろう。
【了】