街のもの言わぬ羽
ホロウ・シカエルボク


ある時刻を境に街路は静まり返った、酔っていた連中たちは酔い潰れ、眠るかあるいは死んだ、お盛んな恋人たちは建物の陰でお粗末な絶頂を迎え、指を絡め合ってどこかへ消えた、忘れられた競馬場のナイター設備みたいに点いたり点かなかったりしている頼りない街灯の灯りは、金持ちに群がる乞食のようなもやに取り巻かれて広く照らすことは出来なかった、いま路上をうろついているのは、呑んでいるでもなく、盛っているわけでもなく、いまどうして自分がそこに居るのかも判らない連中ばかりだった、そして俺もその中のひとりだというわけだ、金もなく、着る服もそんなには持っていなかったが今夜はどうしても家に居たくなかった、情けない週末の夜には時々そんな衝動が無駄に俺を歩かせる、行きつく場所は決まって街のどんづまりの港だった、いまではずいぶん規制が厳しくなって、無関係な人間が船のそばまで行くことは出来ないけれど、それでも海の上を吹き荒れる激しい風と、そこが何なのかも判らない遠い対岸の、水性クレパスみたいな滲み方をしている様々な灯りを見ることは出来る、港の敷地の隅には打ち捨てられたパイプ椅子がいくつかあって、座れそうなやつを選んで眺めのいい場所に腰かける、昔はそこも不良や恋人たちで賑わったもんだが、街の反対側に新しい港が出来てからは古い港を訪れるものはあまり居なくなった、向こうの港の方が大きいし、そこに行くまでの道も大きくて走り易いし、おまけに人知れずにいろいろなことが出来る場所がたくさんある、だから街の連中のほとんどは古い港を忘れている、だから俺は少し無駄に歩きたいときはいつもここに来るようになった、もちろん、俺以外にもそんな人間は何人かは居て、同じような時間にぶらぶらしていることもある、だけどそんな時間にそんなところに居る人間は決まって変わり者だから、特別コンタクトを取ることもなく思い思いに時間を過ごしていつの間にか帰る、今夜もそんな夜だった、猛烈な炎のような潮風に炙られ続けて朦朧としながら、俺はのんびりと家までの道を歩いていた、数週間前にとんでもない数の人間を巻き込んで歩道に乗り上げたタクシーはまだ邪魔にならないところに置きざられたままになっている、鮮やかなイエローのボディカラーがどうしようもないほどに悲劇性を強調させている、昼間に近付いて眺めれば赤黒く固まった血を車体のあちこちに見つけることが出来る、興味があるならやってみればいい、でもその興味はすぐに薄れる、だってそんなものただの痕跡でしかないのだから、当事者にしてみればもっと様々な意味を持ったものであるに違いないけれど、そんなこと俺には関係のない話だ、俺の友達も親戚も親兄弟も、そのタクシーには殺されていない、どこの誰かも判らない人間の死に胸を痛めるなんて御伽噺だ、そうは思わないか?タクシーに気を取られて縁石に軽く躓いてよろける、でも周りを気にしたりなんかしない、ちょっと酒でも呑んでるのかななんて思われて終わりだ、そもそもこんな時間に歩いてる連中は他人のアラなんか探ったりしない、人知れず歩くやつらは皆、自分の為だけに生きるのが好きなのさ、なにか飲みたかったが自販機の灯りはどれも遠過ぎた、家に帰るまで我慢して水でも飲んで寝ちまえばいい、もうそんなに距離もない…巨大な河の堤防沿いをずっと歩いている時に、ふっと地面が無くなった気がした、それまで歩いてきた道、生きてきた場所がすべて曖昧な記憶に変わった気がした、俺はしばらく立ち止まってそいつをやり過ごさなけりゃならなかった、若い時のようにそれは重さを持ちはしなかった、なにかを強いるようなものでも、激しく胸を揺さぶるような悔恨みたいなものでもなかった、ただただ色褪せたフィルムのように乾いて薄っぺらな色合いが千切られてばら撒かれた鳥の羽のようにふわふわと現れては消えて行った、人生なんて存在しない、過去なんていい加減に書かれたメモのようなものだ、未来はもっとあやふやな約束のようなものだし、現在はこんなふうに足場を失くしている、間もなく夜は明けるだろうし、俺は少しの間眠るだろう、そうしていくつかの時間が流れに乗って消え去ったあとで、俺はまたこんな夜があったことをぼんやりと思い出すだろう。


自由詩 街のもの言わぬ羽 Copyright ホロウ・シカエルボク 2018-06-29 00:03:15
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