肉体労働
葉leaf



風景は一枚の情報体、あまねく毛細血管を張り巡らせて光を行き届かせている。人間はその冷たい視覚により風景から厳密に締め出され、もう一枚の空白の風景として彼方まで広がっている。人間が風景の一員として光を受けるとき、彼はもはや空白ではなく色彩や形態を持った自然物として労働している。労働は人間を風景の中に取り戻すのだ。筋肉と関節と血液と汗を用いて果樹などの植物や資材などの土礫とともに踊るとき、人間は風景の他の構成要素と全く同等に自然の奔流の中へと編み込まれる。

果樹を収穫するために果樹園の中を探索する、その体の運動はむしろ人間の内部を探索する運動である。葉をかき分けることで神経の束をかき分け、実に触れることで臓器に触れる。果樹園を歩き回ることで人間の内部には新しい風が吹き、果樹園で労働することで人間の内部には血がよく巡る。果樹園の広がりは人間の内部の広がりと等しく、果樹の数だけ人間の内部には骨格が宿る。果樹園の収穫が終わると、人間の内部の収穫も終わり、いくつも沙漠が消えている。

関節と筋肉は新しい感覚器官となり、見果てぬもの、聴き果てぬものまで感覚する。労働において頻繁に回転や収縮を繰り返すことで、その運動のさなかに新しい感覚を巻き込んでくるのだ。例えば脳髄を真っ白に染め上げるような感覚や、血液を大河へと導くような感覚が、関節や筋肉には降ってくる。果樹をもぎ取る一連の運動や葉をかき分ける一連の運動、その具体的な身体の運動に伴って、形容を超える感覚が人間を満たしていく。


自由詩 肉体労働 Copyright 葉leaf 2017-08-26 10:56:38
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