パンクの意味
鈴置友也

パンクが現状の否定と自身の目指す強烈な理想の実現への改革への情熱であるとする時。

それは向上心と理想の実現と、現状の否定と不満の吐露と逃避の両局面を持っているのであるのだけれど。その流れは80年代と比較すると今はものすごく見えにくくなった。

例えば、80年代にはまだモダン、と言う言い方に新しさがあったし、(デビッドボウイ、モダンラブ)、冷戦構造が明確であった中、反対側の政府の在り方に自身の理想を託し現状否定するための骨太な思想も支持基盤として保持できた。セックス・ピストルズの欲望むき出しな態度も、アナーキーなんて言葉も、昔は空疎には聞こえなかった。camper van beethovenのようなソビエトや中国の文化に傾倒した音楽が新鮮な響きとして響いていたし、現代音楽の多調律音楽や無調律音楽への未来の夢も希望もあった。シェーンベルクが、私が皆さんにお教えすることは、音楽を書けなくすることです、とベルク自身が教壇で弁を振るった時には、この音楽の先端が、音楽自身のとどのつまりであるのことを心の底から自覚しているような人は、ベルク本人以外には誰もいなかった。それだからリンジークーパーみたいな現代音楽家は、Oh Moskowのようなソビエトについての曲をタイトルに乗せて音楽を作り、近代は過去を塗り替える技術と、新しい法体制のなかでどんな理想も実現できそうな感覚の中で育まれていた。だけれどもそれは所詮、人々の認識としてのベースにあるのは、国家の未来とか生活とか自由とか、そこら辺に根ざしていた。それらの音楽は地球全体を見てもいなかったし、冷戦構造のあとの瓦解した理想の泥沼と屈辱を経験してもいなかった。

ソビエトの崩壊をきっかけとして、現在のキューバの路線変更に至る一連の歩みは、パンクを下支えする思想的な基盤を奪っていった。結局、生活への不満が出てきたときに、人の関心が現状否定をしたいと思った時に、それを正当化する大義がなくなってしまった。社会主義が崩壊して行くなかで、ベル・アンド・セバスチャンのようにほとんど狂信的に根拠のなくなってしまった左翼思想に情熱を注ぎ続けることなんか誰もできなかったし、それだからソビエトの崩壊後は、少しでも賢い人は左翼はやめてみんな一気に右翼に傾いた。それは、それしか信頼できる思想的な基盤がなくなったから。

グローバルな路線で考えるグローバリスムがもたらしたEUとユーロの基盤も、移民などの問題でネガティヴな印象ばかり抱くようになり、国家がより大きな共同体のバランスの上で発言権を奪われ、国家自身の尊厳が奪われて行くことにみんな面白くない。現在はそこにあり、だから今のパンクというのは、トランプ氏やドゥテルテ氏のようなアンチグローバリズムの国粋主義者のことであり、内面化してやり場がなくなり、骨抜きになってただ野次を飛ばし、普通と違うことをして人を煙に巻くようなピエロになりさがり、エキセントリックな変な人を演じるような、エスノメソドロジストやアクティビストやパフォーマーなんかでは全くなくなった。内面化した不満と実現できない理想主義と、内面に挫折と絶望を持っている人々の心は、もうパンクとしては機能しない。

そのこころの傷は、DecembristsのSon And Daughtersのように、人間もイルカのように土地を捨てて海に住むことが出来れば、国境も人種も風土の固有性も考えなくても済んで戦争もなくなるのに、と言う願望にまで過度に理想化と夢想化と鋭角化がなされるのであり。その過度な非現実的な内面化、デリケートな心のひだに現実的な社会の変化への希望を見出すことは不可能に近くなった。それはまるでどこでもドアのある社会を夢想するのと同じくらい馬鹿げていて、それ自体が現実逃避でしか、なくなったのだ。

そんなわけで、いつしかロックは現実逃避の音楽になっていた。パンクの萌芽とともにそれはあったし、Joy Divisionのイアン・カーティスは孤独と絶望を歌いながら死んでいったのであり、この間亡くなったレナード・コーエンは、ハレルヤという歌の中で、あなたへの愛とこの夜は、神様への<壊れてしまった>祈りである、と明確に歌っていた。ソビエトが崩壊した後に起きたグランジは、音の方向性をインドなどの方向線に変えたし、一見サザンロックへの傾斜に見えて、そのイデーには理想主義は全くなく。時代のムードはblind melonのように、俺は晴れてる天気のもとで雨が降ってることを願っているような狂った人間になっちまったって、そんな寂しい嘆きが世界中を占拠したのであり。傷ついた心とその内面化、湾岸戦争の勃発の時、R.E.M.がそれまで選挙に行こうと投票券をCDと抱き合わせで売っていたような音楽家が、losing my religionを大ブームにさせる。そんな絶望のムードを漂わせていた。そしてついに、nirvanaのカートコバーンはIn u teroのなかで、rape meを歌い、ステージに立つことが恐怖でしかないと遺書に綴り、自殺した。

今、最も鋭角的なパンクが歌っているものが何なのか、それはもう僕らが生きている意味なんて何もないということだった。Suicide MachinesやModest Mouseが叫んでいることは、この人類が歩んできたどうしようもない歴史への悲しみと挫折と、それなのに自分自身の人生を止めることも嫌いになることさえもできないという苦しみ、それであり、その声は悲痛で、その悲痛さの中ものすごい共感があるのだが。

そんな中にあって、今このニュースがある。時代を懐かしむように、パンクを懐かしむことをするな。責任転嫁と理想主義に押しつぶされて身動きが取れなくなる前に、叶えることのできる現実をより良いものにできる本当のパンクを探さなくてはならないと。今だからできるパンクがあるはずだ。それはどこにあるか? 自分に問いかけろ! と。

ぼくは、と、ここでぼくの話を始める。ぼくはこの歩みとともに生きてきて、他者や世の中に期待することはもう、一切ない。つまり自己満に落とすつもりなのだけど。その自己満は、自分なりに、自分の見たこれまでの嫌なもの、嫌な挫折を身に纏い生きて行く生き方からは訣別をするつもりだ。鋭角的な理想に縋りつけないのは何故なのか? それを考えるときそれは単に世の中を見ていて、自己を見ていないからだ。でも他者は変えられなくても、自分だけは変えられる。自分だけでも納得のいく形に自分を近づけること、妥協と諦めの中に自分を置かない、限界を自分で突破できる自分になること。それだけが今のぼくのなかでのパンクである。

長い歴史の中に置かれた小さな自分の人生がある。ぼくらはそれを1分も無駄にできない。1分も、無駄にできない。時間が自分に与えられている、その意味を考えるんだ。


散文(批評随筆小説等) パンクの意味 Copyright 鈴置友也 2017-02-05 06:35:23
notebook Home 戻る  過去 未来