細い細い青い糸のような雨がまっすぐに落ちていて、周りは湿り気をおびた青灰色の世界だった。
私は巨大な石造りの、崩れ落ちかけた円形闘技場の、座るのにちょうどいい四角い石にちょこんと乗って、しめったい黒のレインコートで雨を防いでいる。
白い巨大な犬たちが、目の前をかけぬけてゆく。私は白い犬たちの見送り人、たむけの色とりどりの花束や花輪を作っている。
石造りの円形闘技場ではあるが、そのなかで闘士が金をかけられて殺し殺され合い、うらみの赤い血が流され、闘技場に染みついてきたのははるかはるか昔のこと。
その次の平和な時代には、そこは市民劇場として利用されていた。きらびやかな衣装をまとった美しい俳優たちが歌や舞いでもって、はるかはるか昔の、殺し殺され合いうらみの血を流し息絶えた赤い闘士たちと、死にゆく闘士と愛し合いかなしみの赤い涙を流した恋人たちとの悲恋を演じた。観るものは酒を飲み、うちからもってきたつまみをかじりながら、大人から子どもまで、悲恋に涙を流すのだった。
よい、時代だった。
しかし、灰色の時代がやってきた。そう、いわゆる、ミヒャエル・エンデによって「モモ」に語られる時代。
あのときモモは勝利したが、モモ亡き後、灰色の男たちはまたやってきた。
モモに代わるような女の子はもういなかった。後継者たちはなんとか負けまいと語り継いだが、やがて、すべてが忘れられた。絵本も、本も、クラシックなど手間のかかる音楽も、花を飾るといったことさえ、いまではごく一部の裕福であるか頭がおかしいか、どちらかのものしか興味を持たないのだった。
いま、すべてを支配しているのは、灰色の便利。24時間、こうこうときらめくコンビニエンスストアだが、よく見てごらん。
コンビニエンスストアのきらめきは、本当に光っているかい?
コンビニエンスストアに照らされた場所は、色を抜き取られて灰色になっていく。入っていく人、出ていく人もおんなじだ。
ひとびとは時間をむだにしまいと、はやあしで歩く。ぶつかってもすこしの会釈もせず、チっと舌打ちをして歩いてゆく。
古い町並みは整理整頓され、同じような家やマンションがならびたつ。
同じような家やマンションの中で、同じような家族が、同じような幸せが作りだされ、すこしでもその幸せになじめない人々は、同じような精神の病におかされていく。その病にかかったものはこういうのだ。
「なんだか世界が灰色にみえる」
と。
精神の病は、灰色病と名付けられた。
そう、告白しよう。私も灰色病と診断されたものだ。あるときから同じ制服の人々、同じ仕事をする人々がいる場所に行けなくなってしまった。そこに無理矢理行こうとすると、冷たい涙がボロボロあふれてたまらない。それに、なんたって色彩がないのだ。ぜんぶ灰色なのだ。
「あなたは少しいま頭がおかしくなっているのだから、カウンセリングにいきなさい。やる気の出るお薬を頂いてくるといいわ。灰色病を治すいいお医者様を知っていてよ。七色薬というのがあるそうよ。普通の人よりとっても素敵に世界に色が付くそうよ」
母が明るい声で言ったが、その目に含まれている静かな軽蔑を私は感じとる。私は母の理想の器から落ちこぼれた。
「そう、ママの言うとおりにしなさい」
父は経済新聞を読みながらいう。
ああ、灰色だなぁ。
七色薬のことくらい、私もネットで調べて知っていた。七色薬から離れられなくなった人々のネットの掲示板や、灰色病からの回復ブログ。同じような文章で、七色薬のおかげで、灰色病から克服した幸せが語られていた。
けれど、それを読んでいつも違和感を覚えていた。
『紫陽花が綺麗な季節ですね! 七色薬を飲んでから、紫陽花が銀色に輝いて見えるんですよ。本当に素晴らしい薬です』
『今日の雨の色、素晴らしくなかったですか? まるで鮮やかなピンクのフラミンゴみたいな色の雨でしたね』
『いやぁ、紅葉の季節ですねぇ。真っ青に染まった紅葉が舞い落ちる、いい季節です』
そうして最後の言葉はこれだ。
『七色薬なしには、もう生きていかれませんね!』
灰色の世界の方が、なんぼかマシのように思う。
母からカウンセリング代と病院代をもらい、最後の灰色の世界を堪能するためにふらりとやってきたのが、両親や教師から立ち寄るな、と禁止されていたこの円形闘技場だった。
あんな歴史建造物、壊してマンションにして、働く人を増やした方がこの町の発展になる、と、両親も教師もいう。しかし、苦虫を噛みつぶしたような表情で、あそこは花の時間にまもられている、という。
あそこには、モモが亡くなるときに残した時間の花が咲いている、と。だから、マトモな人間は近寄らないほうがいい、と。効率的な行動を吸い取られて、本や季節や料理を楽しみながらのんびりとしか生活できない、この世には必要とされない人間にしかなれなくなってしまうから、と。
私はもう必要とされなくていい。灰色病になってしまったし、これからもし七色薬をみても、おかしな色の世界でいきてゆくだけなら、もう、いい。
円形闘技場のなかに入る。
そこには、外では降っていなかった細い細い雨が降っていた。
それは、静謐な澄んだ青い色をしていた。
闘技場の中は青灰色にけぶっていた。
まだ世界が灰色でなかったころ、梅雨の時期に見えていた色だ。
私が愛する、静かな青色。
闘技場の中には、巨大な真っ白い犬たちが、音もなく闘技場の中をくるくると駆けていた。ふと気付いたが、同じ犬たちがずっと闘技場を駆けているのかと思ったが、そうではない。何回か駆けては、ほとんどの犬が消えてゆくようだ。中には、ずうっと走り続けている犬もいるようだけれど……。
その中の一匹に見覚えがあった。
老いてまっしろに近い色になった、シェットランド・シープドッグ。
私が幼いころ、老犬になって面倒を見きれないという理由で、どこかに連れて行かれた、私の親友だった犬だ。笑顔みたいな犬の口。目が合う。私の前をかけぬける。そうして、もう、私の前を走りぬけることはなかった。消えてしまった。
涙がボロボロと出てきた。
それは、あたたかい涙だった。
「ここには、屠殺場で殺された白い犬たちの魂が集まるんだよ。好きなだけ駆け抜けて、満足したら消えてゆく」
立ちすくんでいる私に声をかけてきたのは、どこからあらわれたものだろう、腰の曲がった老人だった。白髪に穏やかな茶色(茶色!)の眼差し。目が少し悪いのか茶色の目は蕩けかけているようにも見えるけれど。どれくらい洗濯されていないかも分からない、古びてボロボロになった緑色の(緑色!)ジャンパーに、ぼろぼろではあるけれどあたたかそうなベージュ(ベージュ!)のだぼだぼのズボン。そうして黒いレインコート。
この闘技場には、この老人には、やわらかな色がある。
「あのシェルティーは、ずっとずっと駆けていたんだ。どうしたかな、と思っていたが、お前さんを待っていたのだね」
「そうですか……」
「降る雨は犬たちの、あわれな、心を失ったひとびとを思う涙さ。さて、いきなりだが本題だ」
「はぁ」
私はもうこくこくと頷くだけだ。
「わしのこの仕事を引き継いでほしい。いや、なに、かんたんな仕事だ。あそこに年中何もしなくてもみのる畑があり、年を取らぬヤギや勝手に増える鶏もいる。贅沢を求めなければ、麦や野菜や乳、卵で生活していけるはずだ。そのうちにヤギの乳で酒も作れるかもしれないな。闘技場の入り口が雨よけの場所になる」
ごくり、と私の喉が鳴る。ほとんどの日、私たちはペースト状の栄養飯で生活しているから。
「それから、重要なのは花畑だ。ほれ」
「花畑? そんなもの、見えませんが」
「闘技場の、石段の上さ。石段に見えるがね、あれはみな花壇なのさ」
ああ、と私は声を噛み殺した。
いつのまにか、石段の上には花々が咲いていた。
青い紫陽花、赤やピンクや黄色のばら、重たげに頭をさげる八重の山吹色、しだれて咲く淡いピンクの桜。ここからは見えない花々も多いだろう。見上げる闘技場は、いつのまにか闘技場自体が花瓶のようだ。
「わしは、七色薬の発明者さ。数十年も昔、わしの髪がまだ真っ黒だったころよ」
「え、あなたが」
「そのころ、わし自身が灰色病を発症しておってな。ただただわしは、元の世界の色を見たかったんじゃ。研究し研究し、元の世界の色を取り戻す薬を発明した、しかし」
老人はかなしげに笑う。
「同輩には、元の色を取り戻すだけでは足りぬ輩がいた。製薬会社もそうじゃった。いつの間にか七色薬はわしの手の届かぬところにいった。もっと素晴らしい、華やかな色を!! 世界をバラ色以上のものに!! そうして、灰色病の発症者は、灰色病であったほうがまだよいような、狂った世界で生活しておる。わしは、そのころ唯一のわしの親友であった犬のボルゾイの白亜を連れ、闘技場に来た、いや逃げた。そのころのこの闘技場はは空っぽじゃったよ。わしは餓え死ぬつもりでおった。何日飲まず、食わずだったかもう覚えておらん。倒れた。そして起きた。干からびてからからになっておったはずのわしの体はピンシャンとしていて、わしのかわりに、白亜がひからびて倒れておった」
笑いを作ろうとしている口元が震えている。
「白亜を埋葬したところから、何もしなくてもみのる畑が、年を取らぬヤギや鶏が湧いた。闘技場の石段が花壇になり、花が咲き乱れ始めた。そうして、白い犬たちが駆け抜けはじめ、わしはまいにち、あれらの花の手入れをし、かなしい顔をしてよってくる犬には、花で編んだ首輪をつけた。そうしてわらった犬は、何周か走ると消えてゆくのさ。この仕事をしてもう何十年になろうか。しかし、そろそろ潮時じゃ。わしは、そろそろ死ぬ。なんとなくわかるもんじゃよ。だから、お前さんに、この仕事を引き継いでほしいんじゃ。単調な毎日じゃよ。飯を食い、花の手入れをし、かなしい顔をした犬に花の首輪をつけ、眠り、起きる。それだけの毎日じゃよ、しかし、お前さんには合っておるような、そんな気がしてならぬのでな」
「お引き受けします」
私は老人の手をつかんだ。年月が刻まれてかたく、あたたたかく、働き生きてきたことを証明する、シミの浮き出た手。老人は満足そうに笑った。あたたかい茶色の目がカラメルのようにとろりととろける。
そうして老人はふっと透明になり、消えた。あとには老人の着ていた服だけがパサリと落ちる。
白い犬たちが足をとめた。
そして三回、声を揃えて遠吠えをした。老人を見送ったのだ。また走り出す……。
あれから何十年の時が経ったか分からない。もう、数百年経っているのかもしれない、とも思う。私は老人の服を着て、老人になり、ふりしきる水色の雨の中で飯を食い、花の手入れをし、かなしい顔をした白い犬に花の首輪をつけて見送り、眠り、起きる生活を続けている。
ときおり、外の世界の七色薬から逃げてくる人もいる。いまでは七色薬は七万色薬になり、灰色病でない人間も常時飲むようになっている。
後継者はまだあらわれないが、必要な時には、きっと来るだろう、そうして私もまた掻き消えるのだろう。
今日の花輪はなんにしようか。ボルゾイがこちらを悲しげに見つめている。摘み取った赤の梅の花びらに糸を通し、長い首を飾ろうと思うが、この子だけはいくら花輪を重ねに重ねても、この闘技場から去ろうとしないので、女のように長く美しい白い首はあらゆる種類の花々にうずもれてしまっているのだ。
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