千年の海
田中修子

 朝日が昇ります。夜の黒に近い藍色を押しのけ、宝石のように透き通った朝の赤が空を染めています。砂丘の色はまだ、黒。赤と黒のコントラストは、流れ出す傷とかたまったかさぶたのように美しい。つぎに瞬きすると、赤い空の端にブドウのような赤紫色がじんわりと滲みだし、やがて薄紫色から空色へ。
 砂丘も薄い黄土色にかわり、あちらこちらに満ちていた赤は、いつのまにかすべて消えてしまいました。
 私はほっと息を吐きます。真上に白熱した太陽が昇りきって、昼の砂漠です。黄土色の砂、黒や茶の岩石。あと一時間ほどで辿りつきましょう、目の前の砂丘の上で、キラ・キラと輝いているものがあります。私は数え切れないくらいの朝や夜を超え、ずっとその光を追って歩いているのです。

 私はこの砂漠のヌシです。私の心の作り出した砂漠の幻影が、形を持って狭いアパートに広がりだしたのはもう遠い遠い、おとぎばなしとおなじほど、むかしの話。

 はじめは部屋の隅に砂が散らばっているだけでした。安っぽい壁が砕けたのだろうと思い掃除機をあてても、すぐにあたらしい砂が落ちてきます。
 三日目くらいには、箪笥や机の引き出しや水道の蛇口から、まるで水のようにさらさらと黄色の砂が湧いてきました。
 一週間目には箪笥や冷蔵庫などがあたらしい形相を持ち出しました。触るとごつごつと硬い、背の高い岩石へ、歪んだり捩れたりしながら変わっていきました。
 同時に、部屋は奥行きを持ち出しました。黄色い砂に覆われた床が、膨張し、すぐそこにあった壁がものすごい勢いで遠ざかる。

 そこまでなったとき、私は大学へ行くのも、外出するのもやめました。もともと玄関だった場所で、ただそこだけ残った鉄の扉に背中を預け、砂漠をぼんやりと眺めていました。
 扉は、砂漠のまっただなかにぽつんと立っています。私はこの砂漠のヌシなので、飲まず食わずで生きていけます。暑さ寒さは感じますけれど、死に私を導くことはありません。服装も、ワンピースだったのがいつの間にか頭にターバンを巻き、オレンジの布を体いっぱいに着込んでいました。

 時間というものがここではねじれるようで、もう、いつだったのかよく覚えていないのだけれど、砂漠が作られてから、まだ、そんなにたたないうちだったと思います。
 連絡がとれない私を心配して(電話機はとっくに一抱えもあるような岩に変わっています)、付き合っていた人が尋ねてきました。合鍵をつかっていきなり踏み込んできたのです。小さいけれど上品そうな、美しい赤い袋を持っているのが、不吉に私の目には映りました。

 もう会わないつもりでした。私は砂漠の中での、時の流れているかそうでないか分からない生活が気にいっていたのです。
 昼は雄大な砂漠の中をふいてきた風、強い日差しにあたって皮膚が沸騰するようにめくれる痛みに、飲まず食わずのこの体が、しっかりと生きていることを知る。
 夜には凍えてガチガチ歯を鳴らしながら、ものすごい色彩の満天の星を眺める。銀に金、藍に朱、全ての色を星は持っていたのです。
 そうしてまた、砂丘の様相が大きく変わる朝が来る。
 
 あまりの昼の熱さ、夜の寒さ。
 風景に圧倒され、何も考えず、何も言わない。ただ、見つめるだけ。それでも空や砂は私を見つめ返してくれる。時に痛みを感じさせられながら。
 そのような静かな包み込まれ方に、私は充足していたのです。人のいない、やさしさ。

 私は本当は人が嫌いだったのかもしれません。それなのに、それだから、外の世界では優しい彼を松葉づえとして便利につかっていた。
 私の精神は不具。
 外見はまともに見え、そこそこ可愛らしく見えるように毛づくろいをし、支えてあげなければと思わせるように顔面を幼く塗りたくり、あなたがいなければ生きていけないのです、それだけあなたを愛しているの、一生離さないで、と囁きながら、私は、ほんとうに彼を愛しきっていたでしょうか?
 いえ、私が私以外の誰かを愛したことが、結局あったでしょうか。
 人としてごまかしていきていくのも、これで最後にしなければならない。外の世界では不具者で、彼に迷惑をかけるだけの存在かもしれない。けれども砂漠の世界では私は、空や砂やゴツゴツした岩や、夜に浮かぶ金の銀の藍の朱の星と、なんの変りもないのです。醜くも美しくも、ただ、そこにある。
 ただそこにある。
 
 ちいさな赤い袋を持って入ってきた彼は目を見開きました。ゴクリ、とのどぼとけが動きました。
 彼はおそるおそる屈み込んで、砂漠の砂を掴みます。そうしてそれが本当の砂であるかどうかを確かめるために、幾度もさらさらと落としました。出てきた鉄のドアを振り返ります。ノブに手をかけて、少しだけ開けてみました。普通に二階の廊下が見えるだけです。
 後ろ手に閉めてから、
「これはなんなんだ」
「砂漠よ」
 私は答えました。問いが滑稽だったので、少し笑ってしまいました。
 彼は私の左腕を掴み、強く引っ張って立ち上がらせました。そのまま、扉をあけて外の世界に私を押し出そうとしました。強い恐怖を感じました。うまれてはじめて、悲鳴をあげました。甲高い、自分のものではないような声でした。
「出て行って!」
恐怖とも怒りともつかない真っ赤に焼けた塊が喉の奥で転がりまわっています。すごい勢いで腕を振り解き、走って逃げました。彼は扉のそばで固まったまま、動きませんでした。
「帰ってよ、そうしてそのままもう来ないでちょうだい、どうして来たのよ、もういらないのに! 外の世界なんか、私はもういらない!」
(……外の世界に必要とされていないのは、本当は私ね)
私は扉を指しました。彼は一瞬迷ってから、私の方にゆっくり歩いてきました。
「その、誕生日だから、おまえの。今日は。連絡が取れなかったし、プレゼントを持ってこようと思って」
しどろもどろに言いました。さっき私の腕を掴むときに落とした、滴るように赤い袋を拾うと、手荒にあけました。その中からまた、落ち着いた茶色のサテンのリボンでラッピングされた小さな箱を取り出しました。リボンも引きちぎるようにして開け、箱を壊し、きらりと光るものがありました。
「指輪をあげようと思って」
小さなダイヤモンドのついた、柔らかい金色を放つ指輪をそっと取り出しました。

 ああ、嫌だと思いました。
 私は自分の生まれた日のことなんて、わすれていたのに、それで良かったのにと。
 またなんとも言えない怒りがこみ上げて、それを言葉にできなくて、震えました。彼は指輪だけ持って、そろそろと近づいてきました。あと十歩、九歩、-五歩、四歩、三歩-どうすればいいのか分からないんです。
 私はもう放っておいてほしいんです。いくら愛されても、疑うことしか出来ぬ私は、彼が私を愛そうとするだけで、痛くて、仕方がない。
 
 突然強い風が大量の砂と共に吹き付けてきました。
 あっという間に視界が黄色に染まりました。思わず座り込んでしまうほどの強風でした。それでも私は砂漠のヌシなので、足に少し力を込めて立ち上がりました。今はもう、やすやすと人が飛ばされてしまいそうな風でした。ターバンがとれ、髪が風に舞い踊ります。ああ、私が嵐ね。髪が切れるような鋭さで顔にあたりました。彼の叫び声を聞いたような気がします。
 風は去りました。遠ざかると、風は風なんてものではなく、天に届くような竜巻であることが分かりました。黄色い砂をひゅんひゅんとかき回しながら、砂丘を崩し、砂漠を切り裂いていくのでした。
 ドアも、彼も、なくなっていました。

 大きな砂丘の向こうに竜巻が消え、静寂が戻ってから、私は不意に後悔しました。外界に戻るためのドアが失われたのはほんとうにどうってことはないのです、けれど彼は……、この一見狂った世界で私をまっすぐに見つめてくれ、あの、やさしげに、指輪を差し出してくれた、彼は。
 私は走りだしましました。竜巻よ、止まれ、止まれ!
 巨大な螺旋は遠ざかってゆくばかりで、私の命令を聞いてはくれません。
 私は、砂漠のヌシなのに。
 なぜなのか分からない、熱い砂に足が焼けて、悲しいはずなのに声も出ない。遠ざかる、今となっては小さな影のような竜巻を見つめるのが精一杯でした。

 あれから何十年、何百年経ったでしょうか。私は彼を探してさまよい続けてきました。ある日、遠くの遠くの砂丘に、砂と石で構成された、この世界ではあるはずのないきらめきを見つけた時の喜びを忘れることは出来ません。きっと、あの小粒のダイヤモンドの輝きでした。それからの年月は飛ぶように去ってゆきました。

 今はもうはっきり見えています。小さな指輪です。それと、そのとなりに転がっている、されこうべの姿がです。
 あと十歩、九歩、-五歩、四歩、三歩、二歩、一歩。
 私は砂丘のてっぺんで、高々とされこうべを上げました。そしてぎゅっと抱きしめました。足の力がぬけて、ぺたんとすわりこみました。されこうべにしばらく頬擦りしてから、そっと指輪を持ち上げました。左手の薬指に嵌めます。太陽の光を浴びて、私の目にとてもまぶしいものでした。
 足の上においたされこうべが、カタカタと鳴りました。

 「千年、待った、よ」

 少しかすれてはいたけれど、彼の声でした。
 私はされこうべを抱きしめて、泣きました。
 考えてみれば、千年ぶりの涙でした。いや、砂漠が出来るずっと前から、私は泣いたことがなかったのです。
 されこうべのぽっかりと開いた目や鼻や口からも、どっと透明な水が溢れ出します。ドーンという音にあたりを見回してみれば、四方から水が迫ってきます。彼を抱きしめているので、怖くありません。
 もうすぐここは、暗くて清浄な、海の底になります。


散文(批評随筆小説等) 千年の海 Copyright 田中修子 2017-01-08 21:36:04縦
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