詩論
水菜

詩は、情緒の穴である。 端的に言い換えれば、詩とは、ハーモニーである。 ゆらぎである。 感応することであり、掘り起こすことである。 詩は、情緒の穴である。 つまりは、そこにこそ、詩の存在意義があり、そこにこそ、詩は息づいている。 息を放っている。 眼差しがあり、詩の生がある。 喩えるなら、詩は、殺されやすい繊細な砂糖菓子のようなものである。 口に含めば味合うまでもなく、はかなくふくらみ、煮溶けてしまう。 詩は、殺されやすい、繊細な心の触れをゆらぎをそっと固めたものである。 感応することでしか、それをほどくことは難しいだろう。 詩は、学ぶものではない。 フィーリングで伝わるものだ。 私に あなたに 私の心に あなたの魂に ゆらぎ 感応する。 詩は、情緒の穴である。 ひとたびその魅力にとりつかれれば、人は、その永遠の宇宙の穴へと吸い込まれていくだろう。 すなわち、情緒の穴という魅力的な魂の感応の先へ。 想像というイメージという魅力的で終わりのない感応の先へ。 そこにこそ、詩の生があり、つまり端的に申すならば、詩をあなたが殺したくないのならば、その情緒の穴に身を投げ出すべきなのである。 詩が息づくそこへ。
 

イメージに終わりは無いように、世界があなたが満たされても尚、不思議がそこに満ちるなら 情緒の穴に身を投げ出す先に終わりはない。 そこに広がる果てないイメージの本流は、きっと絶え間なく続くだろう。 詩は、そのような殺されやすく、ある特定の間にしか潜めない息づくことの出来ない繊細なそれなのだから。自由な解釈で満たされるもの 詩は、情緒の穴である。



散文(批評随筆小説等) 詩論 Copyright 水菜 2016-12-20 13:51:48
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