ホロウ・シカエルボク



夏に
その場所に貼りついて
そのまま
息絶えた
ひとりの蛾が


いつしか淡い影となって
冬には、なくなった


それはありふれた風景だったし
毎年のように
繰り返されていたこと
だが
しかし


その蛾には妙な意志があった
ついぞ
表に出ることはなかった意志だけれど
羽ばたくことにも
撒き散らす鱗粉にも
そのすべてに意志があった
それが在る時点で
かれは
もはや蛾ではなかったが
蛾であること以外に
術があるわけでもなかった


ときどき
かれは
壁に止まったまま、じっと
一点を見つめていたかと思えば
狂ったようにあたりを飛び回った
それから行き倒れるようにそこいらの枝に捕まって
地面を見つめていた
昼休みベンチに身体を預ける
スーツを着た人間のように


蛾が意志を持てば
蛾であることは不幸なことだ
人が意志を持てば
人でない自分を望むのと同じように


しかしそれは発芽である
同じ人生を生きた死骸が積もり積もった土壌で
新たな種を築かんと試みる生の本能である
種が生き残るにはふたつの方法しかない
まるで進化しないことを選ぶか
進化を求め続けることを選ぶかだ
それはある時点までは容姿のことであり
ある時点からは内面のこととなる
たとえば
人間は始め怖ろしいほどの思いで進化を求め続けていたが
それが落ち着いたいまとなっては
ゴキブリと同じで同じ姿を維持し続けるだけのいきものになった
蛾は見つめていた
ある家の天井の
電灯の傘の裏に止まって
見つからないように
見つめ続けた
彼等の食事と
性交と継承を
そして
それらがたびたび壊れそうになるのを
そして考えていた
自分がそこに居るわけを


見下ろしているいきものたちは便利な手足と大きな身体を持っていて
それらを自由に使いこなしているように見えた
かれらは自分たちでは飛べないようであったが
それ以外のたいていのことなら出来るように見えた
かれは
興味深くそれらを見続けていた


でもかれはそれらを知りたくて見つめていたわけではなく
かれが知りたいのはただ自分自身のことだった
おれがかれらでないことにはどんな意味があるのか
おれと同じような姿をした連中と
おれがまったく違うように思えるのは何故なのか
本当に違うのならば何故そんな風に生まれてきたのか?
いくら考えても答えが出ることはなかった
また、考え続けていると
自分自身が本当にそんなことの答えを知りたいのだろうかと
そんな思いが沸いてくることがあった


(もしやおれはなにかの間違いのようなものでこの世界に生まれて来たのだろうか?)
ときどきそんなことを考えて身震いをした
「生まれてきたのに生まれてきた意味はなかった」
そんな現象が含むものはただただ怖ろしかった
ある日かれはその天井を離れた
もうそれ以上見つめる意味はないように思えた
おなじころ生まれた仲間たちが次々と息絶えていく中で
自分だけがそこで生き続けていることが不思議だった
行くあてがないので上がれるだけ高く空に昇ってみた
そこからの眺めは
天井からの眺めよりもずっと美しかった
そしてその美しさは
かれにとってのかれの運命をさらに判らないものにさせた
(ここにある出来事はひとつではない、おなじかたちのいきものもそれぞれがまるで違う意味をもっていて、まるでちがうことをして生きている)
かれは懸命に羽を動かしながら
おれはずっとこんなことばかりして生きているな、と思った
そのとき強い風が吹いて
かれは大きく流された
羽ばたくことも出来ない強い風の中で
かれは生まれて初めて死を覚悟した
死にたくない、とかれは思った
もう少しこの世界を見たい、考えられることはすべて、納得がいくまで考えてみたい、そう思った
そのとき風が方向を変え
かれはどこか見知らぬ場所へと吹き降ろされた
そこにはこれまで見たものとよく似ているけれど
どこかがまったく違うものたちが生きていた
かれらはしょっちゅういがみあって
ときには血すら流れることがあった
なにか強い光と熱を放つものがしきりに飛び交った
かれはそれらを避けながら物陰に止まって
これまでとはまるで違う景色を見ながらこれまでとおなじことを考えた
見ている景色そのものはやはりあまり問題ではなかったのだ
そこには乱雑な死があった
それが死であることはよく判った
唐突で絶対的で
あまりにも数が多かった
あたりが静かになると
かれは物陰から抜け出し
そこにある無数の死と生を見つめた
それはとても圧倒的な光景だったけれど
そこにどんな意味があるのかはまるで理解出来なかった
でもそれはかれにとって
決して無視出来ないなにかを含んでいた
かれはしばらくの間留まることに決めた


それからずいぶん長い時間が過ぎて
その場所は突然大人しくなった
あたりを歩く連中の顔が穏やかになり
強い光も、熱も、感じることはなくなった
昨日までが嘘のように和らいだのを見ていると
突然かれは以前に暮らしていたあの天井に戻りたいと思った
どうすれば戻れるのか判らなかったが
ここにきたときと同じように高く昇ればいいのではないかと思った
かれは静かになったそこを離れ
空を高く昇っていった


かれが懐かしい天井へと帰ってきたのはそれからうんざりするほどの時間が過ぎたあとだった、以前のように隙間から入り込もうとしたが、入れるような隙間はどこにも開いていなかった、かれは中を覗けるところに止まってしばらく覗いていたが、そこで動いているはずのものたちは見る影もなく、ただただがらんとした空間があるだけだった
(かれらも死んでしまったのだろうか、あるいはおれのようにどこかへ移ってしまったのだろうか)
そう考えながらしばらくの間そこで
以前過ごしていた空間を思いながら過ごした


そうしてまた長い時間が過ぎた
その場所には誰も戻ってくることはなかったし
また誰か新しいものがくることもなかった
まるで空間が死んでいるみたいだった
かれはそうした気配を感じることが出来た
もうかれはあまり考えることがなくなっていた
空っぽの空間を眺めているうちに
自分自身のなにかがおなじ空っぽを抱えてしまったみたいだった
(ああ、もう、きっと…)




夏に
その場所に貼りついて
そのまま
息絶えた
ひとりの蛾が


いつしか淡い影となって
冬には、なくなった


それはありふれた風景だったし
毎年のように
繰り返されていたこと
だが
しかし


その蛾には妙な意志があった


自由詩Copyright ホロウ・シカエルボク 2015-12-24 23:20:57
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