書く動力 5
Dr.Jaco

意識して柔らかく書き出したはずの話であったが、ドンドンとんがってくるのを感じ
る。先に出した私の過去の書き物については、どうあれ私にとっては大問題であり、
白旗掲げながらその背後から銃を打ちまくるような卑怯な体勢で出したとも言える。
「もう傷付きたくないから、あんた、何とかしてよ」って。

「言葉さん」は、私が焦がれる対象(物体・感覚・イメージを問わず)に隠れていて、
見つけられればその対象を貴方に手渡すことのできる言葉(ないしは表現)である。
「手渡し」というのも比喩でしかない。私は自分が詩だと思って書くものを朗読した
りはしないから、字にするだけなのだが、このフォーラムであれば、字として放り出
されている。無論私は自分なりに頑張って置いてみたり飾ってみたりする訳だが、そ
れとお構い無しに放置されていることに変わりない。このHPは書店の書棚が画面に
存在しているのと同じなのである。関心のないコーナーにあるものは見なくてもいい
し、自分が書いたものを放置するだけでもいいからだ。そして時々売れてるかな、と
か思って覗きに来るのであれば、著者と書店の関係になる。

問題は、その書店に自分の書いたものを置きたいと思う気持ちである。読書家でない
私も今までにほんの何冊か、自分が素晴らしいと思う本に出会った。書店で手に取っ
て何ページか読んでいく内に、書いてある文字を自分に手繰り寄せたいという欲望に
駆られていく。その時、文字は生き返る。膨大な死体の山が築かれた書店の中で、自
分が手に取った本だけが生き返ったのである。パチンコ屋で隣に座ったばあちゃんと、
ふと顔が合って「出ないね」って。

何か知らんがそのばあちゃんが「愛おしい」というのと、「言葉さん」が愛おしいの
は似ている。似ているがレベルは違う。後者は圧倒的に疎ましいのに愛おしいのだ。
どういうことか。愛している者が言うことをきかないこと程、疎ましいことは無い。
愛しているのだから、常に(妻の次に)第1順位であり、最優先であり、何を置いて
も「言葉さん」なのであるが、文字を画面(ないしは紙)に置いていくと、その都度
少しずつ逃げていくのだ。というか、私が置いた文字が「言葉さん」にはじかれるよ
うに、ずれているのだ。更に、照準が合っているつもりでもずれるのだ。手掴かみし
た魚がぬるっと逃げるような感覚。

腹の底に確かに抱えて、孕んでいるものが感知されているのに、「本当に私の子なの」
といった文字が置かれていく。そりゃ憎い。だって古典的だけど愛するって征服する
ことらしいし、不服従=憎悪の対象だもの。不服従の「言葉さん」は貴方に届かない
し、ってもう分かっちゃってるし。

私の中で生き返った文字達のように生き返りはしない言葉を、自分が書いていること
が自覚されると、肉体への堆積が重くなってくる。体の外に放出できない「言葉さん」
が堆積する。で、時折キレたような文字を置いてみて、すっきりした振りをするのが
せいぜいなのだ。

愛と憎しみの円環は、その90%が憎しみであり、たまに近日点に来た「言葉さん」
の幻影が錯覚される時だけが愛である。その愛の時間が重くて、フラフープのような
遠心運動が続く。それがスパイラルのごとく突き進むものなのか、やがて失速して足
下で息絶えるのかが少し気になる。

ただ間違いなく、繰り返しがなかったら、私は書いてはいないのだ。そして文字を置
く行為は、意図するとしないとに関わらず、読む(ないし読まない)貴方の像を結ば
せる。実際にいようがいまいが、文字が「貴方」の像を投影し、私の肉体の中に倒立
させるのだ。だから一方で、私は「貴方」の中に倒立したくて、文字を置くのだ。

セックスよりは難しいアクロバットが要求されていた。


散文(批評随筆小説等) 書く動力 5 Copyright Dr.Jaco 2005-02-12 00:30:15
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