心理学にフロイト主義なるものがあるのか—フロイト評論①
銀馬車でこい

現在の日本の心理学においては、フロイトの地位がやはり大きすぎる点について、心理学の興味的な追求の或る人間として、批評を許して頂きたいと思う。当時オーストリアハプスブルク帝国に活動拠点を置いたフロイトについては、様々な言論を許すべき存在ではあることは、間違いない。弟1点、フロイトの成立させた「精神分析」は歴史的否定的な影響を免れない。第2点、性欲を語ることに意味があるのか。以上の2点について,あえて事実的に,批判展開をさせて頂く。

第一に、ジグムント・フロイトはウィーンを拠点にし、当時としては、多くの戦争と大乱を引きずり続けたオーストリア・ハプスブルグ帝国末期において、主な著作「夢判断」「精神分析」を成立させた。すでに当時は、グーテンベルグの活版印刷の登場、産業革命の成功の時期にあたり、コミュニケーション、ディスコミュニケーションにおいては、多種の文化的な発展を期した社会がヨーロッパの文化であっただろう。明らかに、フロイトの医学的な業績は、精神医学の始まりを始まりとして評価を受けるものではある。しかしながら、今現在は、特別な議論があるような場所や本棚でのみ、その功績は認められているにしかるべき思想であるであるのではないだろうか。実に、思想であるのか参照資料であるのかの別は、殆ど、宛にできないところもあるだろう。そのような、ジグムント・フロイト周辺を追いたい。

現在、日本で、そのジグムント・フロイトを本当に主義として大巾に認めすぎる傾向があるとすればそれは、批判されてもしかるべきだろう。それだけに、時代的な個人心理的な背景を、まるで、フロイトの言及を信じすぎるような格好で、人間それ自身に、それを充てるとすれば、それは、人間の認識、そしては、事実の誤測と誤認を、なぜか、与えると思うに忍びない。明らかに、フロイトの思想的歴史的背景は、男性についても女性についても、戦争そして暴力から、身を守るのが、ハプスブルク王朝の推進力であろうとした戦争であり暴力ではあったのではなかっただろうか。果たして、現代の人間心理について参照性の或る、人間心理の考察だったのか、それは、はっきりと疑われるべきである。フロイトの著作においては、著作した当時の「絶対王政」の心的影響を認めるべきだろうし、なおのこと、両著作、「夢分析」「精神分析」における着眼は別にして否定的影響を見据えるべきだろう。

現代の民主主義などについての人間心理などについては、「夢判断」、「精神分析」における心理考察には認められなかっただろう。逆に、ジグムント・フロイトの読者層による共感によって、オーストリアハプスブルク王朝の政治的な影響下に置こうとすることによって、絶対王政を認めていた時代の、前近代的な、絶対肯定、絶対否定、絶対恐怖、そのようなものを認める「自我」という存在について認めていただろう。一方で、人間において、空想及び幻想及び夢に関しての思考を考察した人間性は評価できるところはある。それについても、かつての王政下のベールに包まれたオーストリアハプスブルク王朝の真相を懐疑させるような発想ではあっただろう。否定的影響の強い論理展開の詳細までは、提出できないわけだが、明らかに、これらの点については、指摘せざるを得ない。

ヨーロッパの思想界について、その文献をただ漁るだけでは、中々糧を得ることは出来無いだろうが、フランス精神医学においては、明らかに、フロイト批判を続けた結果、揺るぎなき成果を得ていることが確かだ。すでに20世紀前半の古きにおいて、フロイト批判主義を見据えた、クレッペリン、ラカン、ベルグソンの存在は多いに評価されている。なぜか、それは、論理のみの性欲に関しての思想的な展開が、要領を得なかった可能性は高い。古きに叫ばれた性の解放を進めたのは、フロイトに対しての批判主義の一部だったこともあるだろうが、両著作の「夢分析」「精神分析」を、批判主義の原典とするような性欲中心主義については、反動的であるに過ぎなかっただろう。「夢分析」、「精神分析」に関して登場する人物に関しては、すでに、魂として天国に昇った、敬意を評すべき「すでに亡くなった性欲」でしかないだろう。

第2点、性欲を語ることについては意味があるのか。フロイトは,性欲を知りえる自我についても、また、臨機応変な自我の多くを、「無意識」の機能とした。けれども,「無意識」で女性を口説くとは失礼なような気がする。そのようなジグムント・フロイトがいたことについても、批判的な男性がいたことが、明らかだろうと思う。しかしながら、フロイトが悩んだ成果が、「夢分析」「精神分析」だったとして、はっきりと、無意識、それは、フロイトの最大の発見だった。「機知」つまりユーモアに関しての論理展開においては、「無意識」は、かなり重要な位置づけである。そこでの「無意識」とは、自我が自我であることの意識のスイッチでもある。無意識を発見したフロイトにとって、明らかに批判主義を認めるユーモアに関しての論理展開がある。普通は、ユングをフロイトの反対側に挙げるが、明らかに批判主義をとっていたと思われるのはベルグソンだろう。ユーモア論「笑い」の著者である。ベルグソンは、「環境」と云う概念を、論理展開の中に組み込んでいた。勿論、ベルグソンの方は、批判主義を当然のように認めていただろう。

フロイトの「無意識」とは、ひょっとしたら,フロイトの奥さんに対してのお気遣いだった可能性もありえる。しかしながら,フロイトに関しては,美しい女性を前にする男性としての敬意として,然るべき批判主義があったはずではあろうと言い切りたい。無意識は認められるべき暗黙知であるものであろうが、フロイト博士は「今は,無意識です。」というような言葉を,話した可能性がありえるだろう。私は,独身になるのだけど,女性に対して,そのような敬意の評し方はしない。コミュニケーションを認めて進む言葉の遣り取りは,無意識では,不躾に及んでしまう。どのような意識のみの中で会話があるのか,そしてコミュニケーションがあるのか,そしてSEXであったとして,それは時間の中で明らかなはずだろう。

フロイトの性格的な分析については,力つまりエネルギーの存在をいつも気にする性格であった。その意味で,心の力というものについては,「無意識」の発見とその理論的帰着を,達成させた意味合いは大きい。実に,「無意識」については,仏教で言う刹那やヨガのような発想がある。その影響もしくは関連については,なお検討も必要だろう。無意識についての有無について,これは,敢えて「無い」と言及する立場の尊重も必要である。フロイトの性格を評するとして,人間の力というものについて,それを挙げるとするとしたら,想像力,集中力,注意力,包括力,行動力,この5つを挙げるとする。この中では,特に,想像力,包括力,行動力が優れていた。実に,性欲の心理学の帰着は,この5つの人間の力なくしては,大著の実現を含め,ありえない。しかしながら,性欲の心理学の帰着は,一方で注意力,集中力を活かすものでは,あったかどうか,フロイトは,やはりそれらは,どちらかと言えば,欠いていたのではなかろうか。その辺についても,批判主義的な分析が成り立つ可能性が高い。

一方のジグムント・フロイトは、多数の批判を認めていないほうであったと云う。これについては、自分の著作の信用を強く守るためであったに過ぎない。しかし、それについては、当然のように批判を要求する。実に、かなりの批判を跳ね除けただろう。そのための闘いの日々が、精神医学の研究であった。日本においても、実に批判を認めないための多数の事跡に及び、その信用を評価はされていることにはなっているが、明らかに、どのような言論においても、批判を認めるのが、はっきりと民主的だろう。フロイト学においては、批判的言論を善意として、認めるべきだろう。それについては、性欲の意味信用といった、もともと、個人的なものを超えた、様々な日本人の財産を守るためだろう。全くもって、「性欲」という言葉のような存在の言論の囲い込みを許しては、日本が民主的な国だとは言えないだろう。フロイト主義があったとしてもそれについては、鷹揚な批判主義を認めるべきだろう。性欲という語の意味信用についての現状について、出会い形サイトは、まったく民主主義的に認められている情況であり,「性欲」という言論については、すでにフロイトを原点にして批判を糧にして、広がった言葉だと言及が可能である。それは、「リピドー」という言葉であった。リピドーについては,愛液の象徴性を表現した語であった。「性欲」とは、思想ではなく行動であると云うべきである。

顧みて、日本において、「終わりなき日常」他多数の著作者、社会学の専攻、宮台真司の帰着は、どうだったのか、これについては、はっきりとフロイトの批判主義を認めていない可能性が強く想われる。文献を参照性のある言論だと平気だっただろうし、ジグムント・フロイトを社会学的に語る意味性を強めていたところを認めざるを得ない。性欲の社会学、SEXの社会学、ブルセラの社会学、これについての主張的意味性を、思考する発想だったと思われる。ただ、性欲を語るとしての自己、性欲という言葉、性欲の自由という言葉の意味信用を付けたという点について、評価できるだろう。しかしそれについても、フロイトの批判主義が原点であるのが含むところであるだろう。それが、日常の世界であることが更なる現実の重みであるに過ぎない。これは「性欲」についての意味信用を巡っての話であるわけだが、実に、性欲という価値判断基準についての信用の使用、これについてはどの時代でも、まさにそれは、健康の一部である。宮台真司においては、まったくもって、性欲の意味信用については、フロイトにとって就けたものだったわけだが、しかしながら、すでに亡くなったフロイトの性欲と自分を同一視するような発想は、甘いのではないかと言及せざるをえない。フロイトの著作の参照性においての言質においては、批判主義を原点とするべき常識は、あってしかるべきだろう。



散文(批評随筆小説等) 心理学にフロイト主義なるものがあるのか—フロイト評論① Copyright 銀馬車でこい 2005-02-09 21:44:06
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