しろうからKへの公開書簡 #04
しろう



かつて僕は蒟蒻ゼリーを食べた。
何がしかモノを書く行為の下で「書き出しが一番難しい」というようなことが一般によく言われている気がするが、そうではないと思う。それはむしろ元日に餅を食べるのと同じくらいにお手軽であるために、不意に咽喉を詰まらせてしまう危機に陥ることを過剰に怖れてしまうが所以の自縄自縛であろう。誰だってなんもない平坦な道ですっ転んで赤っ恥はかきたくないから「生まれてから自分の両足で歩き出すまでが一番大変だった」と嘯いてみせる。そこに逆説的に物書きにおける恥が内在している。餅を至極慎重に臓腑の底まで飲み下してから書き出しをものして転ばないように取り繕った上で必然のごとく転んでみせ、ご多分に漏れずかくあるべくして恥をかくのがことさらに詩人のごとき生き物なのだ。転ぶ。当然僕も恥者であるのは間違いないが、ここでビビったら負けだ。

ゆえに僕は蒟蒻ゼリーを食べる。
こいつは唾液で分解できないので、歯で噛み砕きさえしなければいつまでも口腔内に存在をまるごと持続するものであるために、気の向くまま飽き果てるまで口中で弄ぶことができる。いや違うよ、僕はダイエット戦士というわけでは全くないからね。ではなにゆえ朝昼晩と三々九度(この四字熟語に新たな用法を提言しよう、つまり「散々苦しむほどの回数」というような意味にとれるが定着するまでは定かではない)蒟蒻ゼリーを食べ続けているのかと尋ねられればそうだ書き忘れていたが僕は朝昼晩と三々九度蒟蒻ゼリーを食べているのだった、鉄板の上で加熱された紋甲イカのように胸を反り返らせてこう答えるとしよう。我が種の進化のためである、と。そう、遠からぬ未来に来たるべき食糧危機に満を持して備えるために、グルコマンナンを胃腸内でグルコースとマンノースとに分解する消化酵素を生成する能力を会得しておこうというわけだ。ああちなみに僕は獲得形質は遺伝する(可能性もある)と思っているんだ。僕が思っているからそうであるわけで、これは三十世代くらい蒟蒻ゼリーを三々九度食べ続けていけばもう確実なんだ。たとえば日本の猫はほぼ例外なく魚が好きなんだけれどこれって獲得形質だよねなんていうと遺伝科学に明るい人からは怒られそうだけど、僕はそう思うからそう思うわけ。それによって食糧問題は解決する、というのはまずもってあり得ないことだが、少なくとも人類との棲み分けは可能になる。ここで君に「いやそれなら紙を食べ続けてセルロースを分解できるようになるほうが全人類的にいいんじゃないの?」と言われるかもしれない。断固拒否断固三兄弟。紙の価格が高騰して本が買えなくなったらどうするんだけしからん、首を洗っておととい出直せ。そもそも本音を言うなら実のところ僕は食糧危機なんてものに一向に関心はないんだ。真実、根元からこの問題を解決しようとするならば方法はひとつしかないからね。したがって栄養をセルロースに頼るのはナンセンス。要するにことは僕の自己中な思考体系と根っからの怠惰体質に頼るものであって、グルコマンナンを分解する形質を獲得できるとするならばまかり間違って僕の種を残すこともあながち害悪ではないかなと思うわけで、つまり少なくとも食料面ではみなさんのお邪魔はしないよっていうことさ。さてね、近頃になって僕は僕自身がストーリーというものにあまり興味がないんだなということに気が付いた。あるテクストの持つストーリー性の多寡高低を云々するより以前に原初的にテクストにはストーリーが内包されている。それはもう遺伝子的にインプリンティングで。だから何がしかの文章を読むときに「ああなるほど」「いやこれはおかしいな」というようなことを必ずしも経験則に依らずに識別しうるわけで。だけどそういう規定路線からのズレから何かを感得しようって態度にも、もういい加減に飽きてきたよなっていう。無論ここで文学論なんかを一席ぶつつもりじゃあないんだよ。そもそも方法論を持たないことが僕における方法論であり、こうした逆説的な自己言及でしかそれを示す事はできない。ついてはひとこと、我思うゆえに我思う、で済ませてしまえばいいかとも思わなくもないけれどそれでは単なる恥のかき捨てだ。あまり芸は無いがここは自己言及を重ねるより他にないだろう。
そうだ突然だけど今この瞬間はとても絵が描きたいんだ。比喩ではなく、絵の具を練り合わせて作る色彩を動物か何かの体毛でできた筆に染み込ませてキャンパス地のキャンパスに向かって撫で付けたいという渇望こそが今この瞬間だ。それは何故かというと、こないだ絵を描くための道具をみんな捨ててしまったからなんだ。
子供の頃ね、とても不思議だったのさ。たとえば夏真っ盛りに大人と子供で海でもいいけどどちらかと言わなくても山のほうが好きかなへキャンプに出掛けたら山の向こうに太陽が宵の明星とシケこんでしまってから花火でもするとしようか。子供はここで最高潮に盛り上がってて大人はちょっと疲れているという精神的状況は肉体的状況においては逆相関のグラフを描いているということを加算して相殺するとして、大人たちは総じて花火を楽しんでいる振りをしながらその場の賑やかし程度にしか新しい火筒を手に手に持ち替えようとはしないことを子供の目はきちんと見抜いている。あるいはおいしい物、とりわけ甘い果物なんかも分かりやすいかな。なんだね、子供の頃の思い出を思い出すのは夏についてが妙に相応しいとは思わないかね?ここは晩夏の昼下がりの設定で西瓜か白桃にでもしようかとどちらかと言えばかつては桃が好きだったがやはり夏の風物詩ここで「風物詩」という語に筆者はゲシュタルト崩壊を起こしたことを明記しておくは西瓜であり今となっては西瓜を好むので西瓜にしようを食べる時だ。西瓜を大皿に盛り込んでみたならば、大人はおいしそうに食べる振りをしながらやたらとゆっくりと食べたりして誤魔化すかむやみに立ったり座ったりして引き延ばしするか「タネ飛ばしをしよう」なんて言って子供を縁側に誘ってから自身は奥にフェードアウトしたりする。かような彼らの行動について幼い頃は不思議で仕方がなかった。なぜ大人は花火のように楽しいこと西瓜のようにおいしい物に飛び上がってかぶりつかないんだろう?「あんたたちが楽しめば/食べればそれでいいんだよ」なんて言い草は嘘っぱちだと分かってたけど、じゃあ何が本当なのかということについては幼少の身には皆目見当が付かなかった。
はてさて、大人というものは経験で知っていたのさ。絵が描きたくなりたければ絵筆を手放さなくてはならないということを。

かくして僕は蒟蒻ゼリーを黙々と食べている。
なぁに僕はいまこそ飽きるということに飽きてしまいたいのだ。蒟蒻ゼリーを手放してみなくても蒟蒻ゼリーが食べたくて蒟蒻ゼリーを食べたいように思っても蒟蒻ゼリーが食べたくて蒟蒻ゼリーを食べていながらも蒟蒻ゼリーが食べたいと思っていたいのだ。先日僕は、ある亡くなった作家の遺稿を読んだのだった。それは下書き以前の乱雑な原稿をそっくり原文ママで掲載されている点においてかつて生きていた作家本人にとっては不本意であることこの上なかろうと察するがすでに生きていない作家はおしなべてなんとも思うことあたわずであろうからしてさほど気に病むこともなかろう読者としては、物語とはきっとこれこそがあるべくしてある最適のものだと僕は思ったものさ。そのテクストは、

ついでに言えば、

で途切れていた。そう、始まってしまった物語の続きはいつだって「ついでに言えば、」でしかないんだ。そして、ついでに言っている限り終わることもない。


はたして僕は蒟蒻ゼリーを脈々と食べるだろう。
そして僕は歯を磨く。最低でも1日5回は磨く。朝起きたら磨き、朝食の蒟蒻ゼリーを食べて磨き、昼食の蒟蒻ゼリーを食べて磨き、夕食の蒟蒻ゼリーを食べて磨き、就寝前に磨く。もしおやつとして蒟蒻ゼリーを間食した場合は歯磨きもその間食の回数分増える。うちの流し台兼洗面台には歯ブラシ5種類がもしやまれに見えないところで喧嘩しているかどうかは知る由も無いのだが一見仲良さそうに並んでいてそのすべてが僕専用で、1日5回だからといって5種類をローテで使い分けるわけではないが、その時々の気分でがっしがっし磨ぎまくりたいかやさしくなぜるように磨きたいか歯と歯のスキマを狙いたいか歯ぐきを狙いたいか時間が惜しいからサッと済ませたいかによって選択が異なる。ちなみにうちは「かため」以外の歯ブラシは取り揃えていないが、「かた“め”」という度合いがあるならばその上に「かたい」が鎮座ましましているのが必定なのになぜ「かたい」が陳列されないのか僕はつねづね疑問であり否それよりいっそ「メガ硬」が販売されたならば大ヒット商品になるのは間違いないと思っていてそうだこう書いてみて確信するに至ったさてどこのメーカーにこのアイディアを持ち掛けてくれようぐふふギャランティはいらないからモニターとして採用してもらおううむそうするいずれ世間で「メガ硬歯ブラシ」が流通しだしたらそれは僕の功績だと思ってくれて間違いない。
さてここいらで少しはストレートに返書っぽいものもしたためねばならないかと思いつつも思い留まる。総じて物事ってのは本筋よりも外郭のほうが層が厚いものだってことくらいは、あえてこの梅雨に雨乞いをして雨を降らせて見せずとも明白だね。しかるに僕のこの書簡に何がしかの意味やモチーフやシンボルがあるのかどうかは君あるいは君たちの思うところに依るものであって僕はそれに関してはゴミ箱の中のシケモク程度にしか興味は無いがゴミ箱の中のシケモクは我が脳のシワの片隅にその本数や長さ等の情報がメモライズされている程度の貧乏性を僕は持ち合わせており、こんな風に韜晦してみせるのは恥を恥として認めたくないための予防線だったりする。しかし何よりも、恥を晒してますってポーズを取ることで実質の恥を軽減しようという浅ましい計算こそが恥ずかしいと気付いてもいるんだ。上辺を取り繕ってみるのも、飾らぬ振りを気取るのも、さほど大きな違いはない。進めども恥退けども恥。かくも詩書きは恥をかく。いずれにせよここまで来たんだ。もう少しだけ上塗りをする。

おそらく誰しもこういう考えを持ったことがあるだろうと思うがそうそう「誰だって」とか「誰しも」とかいう言葉はとても簡易に他者を全体へと引きずり込むことができる魔性の言葉で甚だ便利ではあるのだが実際のところは発話者において自身の価値観をまるで全体性へと敷衍し得たかのような錯覚をもたらすだけのことが多いちなみに初段でも一度「誰だって」というのを使ったのでここで二度目の使用それは、この世界にはほんとうのところ自分自身しかいないんじゃないかという空想だ。そして決まって次にする空想は自分は他人の空想の産物で実際はどこにもいないんじゃないか、というヤツ。なんか思春期のJIS規格みたいな世界認識で今時にいえば中二病もあながち間違いじゃないけど、これに心理学的な解答を与えるのでは幾分物足りない気がする。思うに事実そういう在り方も可能であったと考えるのはいささか乱暴だろうかいや反証はできまい。二十代も半ばに及んでもそれを信じていたやつを僕は知ってるし、神様や幽霊やUFOなどと同程度あるいは以上にその空想を信じても何ら不都合はないと僕は思うんだよね。世界が自分ひとりの空想の産物だとしても、自分が誰かの空想の産物だとしても、わりと思い通りにはならないんだなって実感は変わらないものとしてあって、結局やること自体も変わらないんだな。そもそも宇宙開闢がどのようにして起こったか及び宇宙はどこへ向かうのかを感得せずして生物が生命維持活動し続けることが可能であるとは僕にはどうにも考えられなくて、真実のところは脳に知識として無くとも命のどこかにしら記録されているに違いないはず。もしも仮にその記録が刻まれている場所がこの生命の裡に無いとするならば僕は、僕が世界を創ったんだから宇宙のことなんて知らなくてもまさにあるようにしてここに世界はあるんだ、ということの方が遥かに自然に受け入れられる。したがってKであるところの君も僕によって創造された被造物なのだと宣言しようものなら、きっと君はバスルームに入ったら靴下の足でナメクジを踏んでしまったような心持ちになるだろうか。あるいはKが世界を作ったのだから、その構成要因としての僕が存在するということでも僕は一向に構わないんだがどうする?僕は靴下の足でナメクジを踏むのには慣れているから。
原初より遺伝子的にインプリンティングされたストーリー。僕はそれに逆らうつもりは足の親指の第一関節上の毛の先ほども無いんだが、それに倣えば安堵を覚えるということもまた足の踵から剥がれ落ちる角質ほどしか無いのだろうと思う。なべてストーリーに依らない人が、また依るまいとする人がいるからこそ、僕は恥をかきつつも綴るのだろう。僕が咽喉を詰まらせるまでは、きっと蒟蒻ゼリーは生産され続けているだろうし、ついでに言えば、



だからね、僕とKとの遣り取りにおいて言葉や意味そのものの歯車が噛み合うか否かはさほど重要じゃないと僕は考えている。むしろ噛み合せようという意図は邪魔でしかないとさえ言えよう。
僕は君を試すつもりなど毛頭ないし、逆に引き立てようとする意思はハナから持ち合わせていない。以下が満たされれば他に僕が望むことはない。すなわちこの書簡の中間で何がしかの反応が起こっているとするならば。あるいはこちらがAであるならば瞬時にそちらはBであるような観測ができれば。






散文(批評随筆小説等) しろうからKへの公開書簡 #04 Copyright しろう 2015-05-02 14:01:47
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