今年の桜は早かったようで、娘の高校入学式にはすでに満開を過ぎて、けれどもかろうじて花は残っていた。この季節、日本は桜の国になる。わたしたちは桜の国の住人になる。お祝いごとがそんな時期と重なるのは、素敵な風景だなあと毎年思う。
散ったばかりの桜道は、まるで新雪が積もったように美しい。雪ならば溶けて水になるのだろうが、桜の花びらはどこへゆくのだろう。ひとつとして残らずに。
どこかへゆくのだろうけれど、ちりぢりになったそのゆくえを、私には追うことは出来ない。
たとえばそんな風にして、さよならさえ言わずに消えてしまうということは、花びらだけではなさそうだ。シャッターも押さなければ記憶の外側へ消えてしまうような、もろもろ。
それでもそれら(彼ら)は、何かをゆだねて行ったのだと感じることがある。私は、ゆだねられて、春という地点で生きているんだと。
もちろんそれは無言でなされるので、真偽のほどは、未来永劫わからないまま。
逝く桜ひとつひとつにメッセージ NR NR No Return
娘は憧れていた革靴デビューを果たしたが、ものの三日で靴擦れをこしらえた。ああ、私もそうだった。幅広の足は私ととても似ている。幅広足倶楽部というものがあったなら、無条件に入会出来るであろう。
ばんそうこうを貼りながらでも、窮屈な靴を履く季節(理想に近づくために自らの足をそれに合わせる間にその理想もまた自らによりそってくる、ような)というものが、きっと人生にはあるのだろうし、私が今いるこの地点から見れば、そこはなんだかまぶしい(戻れないからよけいに)場所である。
チルチル サクラ。散る散る 満ちる。葉桜の季節も(桜餅も)好きだよ。