詩における実在論と観念論
葉leaf
実在論とは、世界に物質などが実際に存在し、それに触発されて意識などが生じるとする考え方である。観念論とは、存在するものは意識に与えられたもののみとして、それを超えた実在を要求しない。
詩においても、この実在論と観念論の対立のようなものを目にすることがよくある。詩における実在論は、実体験を大事にする。言葉以前に体験があり、歴史があり、美術作品があり、それら実在するものを起点に、そこから触発される心情を偽りなく書いていくのである。生活に根差した作品、事実に根差した作品が生み出され、利点としては、事物の文法に沿った記述がなされるために、堅実で破綻がなく地に足のついた表現が期待できる。
詩における観念論は、次から次へと脳裏に過ぎるイメージを重視し、それが現実に存在するかどうかなんてお構いなしである。個人の連想のパターンこそが重要なのであって、現実がどうなっているかはさほど重要ではない。自由奔放で飛躍に満ちた作品が生み出され、利点としては、世界の文法から離れた自由で刺激に満ちた表現が期待できる。
実在論の側からは、人生や存在を踏まえていない言語遊戯など評価するに値しない、などのイデオロギーが提出され、一方で観念論の側からは、現実など退屈である、詩は現実から遊離することで美を生み出す、などのイデオロギーが提出される。
だが、この二項対立は、そもそも二項で争われるものではなく、重要な第三項目が隠されていないだろうか。それは言語である。詩における言語論というものも重要なはずである。詩における言語論は、言語の文法や体系が、そもそも実在や観念に先立つと考える。そして、言語は何を表現するにあたっても入れ物となるものであるから、その構造に表現は支配され、詩によくある言語のコードを破ることによる面白さも、言語のコードが堅実に存在するからこそ生じると考える。
実在論と観念論は対立しているようで対立していない。第三項として言語が介入してくる場合、言語の次元においてもはやその表現された対象が存在するかどうかなど重要な問題ではなくなってくる。実際、実在するものを言語で表現するとき、そこには必ず観念が混じるし、逆に、観念だけで詩を書くことなどまず不可能で、そこには実在的な体験などが如実に反映してくる。言葉には内包と外延があるとよく言われ、外延とは言葉の指し示す実在の対象、内包とは言葉が実在の対象を指し示さなくても持つ意味のことをいうが、言葉というものはそもそも実在も観念も両方収容してしまう容器なのである。
だから、実際に存在するのは、世界に根差した実在論、個人に根差した観念論、社会に根差した言語論、この三つ巴の構図であると思われる。もちろん、実在と観念と言語は相互に牽制し合いながら浸透し合い、実在と観念と言語のどこに重きを置くかによって詩の印象は変わって来るであろう。実在論と観念論の間の素朴な対立はあまり意味をなさず、実際には言語を含んだ三つ巴の相互に関わり合い浸透し合った原理で詩は出来上がっているのである。そして、世界の在り方に触発されて多くを語ろうとすれば実在論的な詩が生み出され、個人の感性の様式を重視して語ろうとすれば観念論的な詩が生み出され、社会によって形成された表現のルール(守るにせよ破るにせよ)に意識的になれば言語論的な詩が生み出される。だが、それらの詩には全て、世界と個人と社会という源泉となるモチーフのせめぎ合いと睦み合いがあるのであり、詩は一つの独立した原理で成立するのでは決してなく、複数のモチーフの複雑な絡まり合いにより成立するのである。