小説における文体の問題
yamadahifumi

 「文学者たる事の困難には依然として何も変わりはないが、文学志望者たる困難は全く無くなったと言っていい。」(小林秀雄 『言語の問題』)


 ちょっと気になってたので調べたのだが、群像の新人賞の56回の応募数は小説が1851で、評論が153となっている。人は今、小説の方を評論より圧倒的に『簡単だ』と感じている事が、この数を見ていると、よく分かる。
 でも、そうだろうか。僕は最近、その事を疑っている。まあ、散々、駄作以前のくだらないものを製造してきた僕が言う事でもないだろうが。…だが、現代において優れた作家は常に批評家的資質を持っていた。太宰治は極めて批評家的な作家である。『女の決闘』などは批評が小説になっていると言ってもいい。夏目漱石はまず、自分の小説を書く前に、『文学論』を記した。


 小説というものを人がこうまで安々と書くのは何故か、というと、それはもう小林秀雄が言っている事だが、要するにその世界全体に対する視点が最初から定まっているからである。今、小説家志望者の多くは文体を問題にしないし、問題にするにしても、頭で知的にこねくりまわすだけの問題となっている。小説において大切なのは、物の見方、その視点ではなく、キャラクターとか、世界観とか、プロットなどのありかただけである。つまりそこには自然主義的小説観が小説志望者の協同的無意識のように作用している。人は小説を書く。あるいは読む。しかしそこには、何かしらの固定された一つの視点がある。動かない、と考えられている無意識的な場所がある。そしてそれがあるがゆえに、小説家や小説家志望者達はやすやすと小説を書くのであり、読者はそれをやすやすと読むのだ。だがそこには何かしら退屈なものがある。


 綿矢りさみたいな作家が、すぐにその文体を失って、いわゆる『普通の小説』を書くようになる、とはどういう事だろうか。僕は最近の村上春樹などもそういう風になってきている気がする。『1Q84』なども、過去の作から比べれば、文体的には劣っていると思う。だが、作家らはその事には気づいていないように見える。彼らはむしろ、自分の世界に対する視野が増大したように感じられているかもしれない。だが、それはある安易な場所に腰をおろしたにすぎないのではないか。僕はその事を疑っている。
 

 文体の問題に関してはかなり面倒くさいので、ここで本格的に論じる事はやらない。だが、例えば、先日買ってきたローラン・ビネの『HHhH』などは、かなり凝った作りになっている。それはドイツナチスに関する歴史的な物語なのだが、彼はその歴史をそのまま叙述したりはしない。ビネは、ナチスにまつわる歴史的事実を小説に書くにあたって、その嘘くささ、つまりフィクションを自分が作り上げる際の嘘くささを自分でも感じていて、それを盛んに壊そうとする。ビネは作者を何度も登場させ、そしてこの歴史的事実ーーーその物語を作る、自分自身についても描写する。そして、小説の中のこの部分は事実の通りであり、資料に則って書いたとか、今の所は思わず創作してしまった、などと読者に報告する。何故、彼がそんな事を書くのか。普通に見たら、これは明らかに蛇足だが、しかし、彼はここでは単純なフィクションの約束事を破ろうとしてもがいている。彼は語る事、小説を書く事の嘘くささを自分でも感じていて、その『嘘くささ』自体を小説の中に盛り込む事により、その嘘くささを乗り越えようとする、そういう、いわば積極的な策に出ている。こういう努力は無駄ではないし、むしろ、現代という時代を考えると、非常に正当なやり方であるように僕には思える。


 もう一つ上げるなら、ミシェル・ウェルベックの『素粒子』だろうか。ウェルベックは別に文体に対して深く考えるタイプではないと思うし、基本的には率直に書いている。しかし、ウェルベックの書いているものは、ビネほどではないが、やはり、作者が全面に出過ぎている。彼は単に登場人物達のドラマをそのまま書いたりはしない。彼は事あるごとに作品の中に顔を突っ込み、そして登場人物の言動を彼なりに意味づけてみせる。…ここでも問題になっている事は、ウェルベックが単に、物語や登場人物の動作を書くだけでは、足りないと考えている事だ。単なる『小説』では物足りない。そう思うからこそ、作者は前に出てきて、様々に意味付けなければならない。そうでなければ、意味がない。価値がない。


 今の小説において、そういう事を感じている作家は稀だと思う。…つまり、『文体』を持っている作家は稀だという事だ。そして、文体を修辞的にこねくり回す事は自分の文体を持つという事とは全く違う。僕はそう思う。文体、というのは結局、作者の世界に対する視点を表してるのだと思う。今、小説というのは余りにポピュラーになり、『小説の書き方』も書店で安売りしている。だが、「文学者たる事の困難には依然として何も変わりはない」。現在、小説を書くーーーしかも、優れた作品を書く、という事は一言で言うと、一般に流布されている『小説の書き方』を乗り越える、という事になるのではないか。そして当然、この問題は困難なものである。だが、この困難は人があまりにも容易に見える問題に決別するからこそ現れる困難であり、今、真に文学者たりえたければ、この困難な道を行く他はないと思う。


 文学における文体の問題ーーーとりあえず僕はそんな風に考えた。文体の問題は文学、あるいはその他様々な芸術に通ずる問題なので引き続き考えていきたい。


散文(批評随筆小説等) 小説における文体の問題 Copyright yamadahifumi 2014-07-06 13:58:09
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