物語に深みを出すには
yamadahifumi

 通俗的な作品というのは、これまでもヒットしてきたし、これからもヒットし続けるだろう。シェイクスピアにも通俗的な要素はあるが、しかしシェイクスピアの作品はただの通俗的な作品とは違う。

 物語性、というものを考えると、そこに作者の自意識の広さ、というものを想定する事ができるだろう。通俗的な作品においては、善は最終的に悪に勝つのだが、しかし問題はその善と悪の設定の仕方である。これは当たり前の事だが、自分を相対化し、他人と自分を同列に考えたり、感じたりする、そういう訓練を経ていない人が優れた文学作品を書く事はこれまでにもなかったし、これからもないだろう。作品の物語性において、登場人物に深みを与える事が可能になるのは、作者が他人というものを自分と同じ程度で容認するからである。

 例えば、悪党がいるとしよう。そして、こちらには正義派がいて、そして最後には正義派は悪党に勝つ。だが、薄っぺらい作品では、悪党の自己主張が弱い。それは単なる、ぺらぺらの紙のような人物である。そしてそれはフィクションだけでなく、現実でも同じであり、たいてい戦争になれば、まず兵士は敵を人間だと思わないように教育される。ナチスはユダヤ人を人とは思わなかった。太平洋戦争時の日本も同じだったと思う。そしてこの構造は、通俗的な薄っぺらい作品と全く同じ構造を有する。

 良い作品ーーー例えば、『ジョジョの奇妙な冒険』というのは王道のエンターテイメントだが、それは通俗的なだけの作品ではない。なぜなら、悪がきちんと、それなりの自己主張を持っているからだ。福本伸行のカイジなども、同じように、悪の側にも正義がかいま見える。そして、だからこそ、それを乗り越える正義ーーこちら側の選択にも大きな意味が出てくる。そうする事により、作品に深みが出てくる。シェイクスピアやドストエフスキーにおいて、悪の主張はあまりに深く、読んでいる僕達は思わずそれに飲み込まれてしまう。しかし、最後に僕達は何らかの形で、この冒険ーーーそして物語の出口を見つける事になる。

 従って、物語、あるいは何らかのストーリー性のあるものを作る上で作品に深みを与えるのは単に、作者の自己意識の深さである。作者は人生において、何かを学ばなくてはならない。自分以外の全員が馬鹿だという考えを捨て去らなければならない。だが、ネット上には相変わらず、そんな声が溢れている。彼らが『才能』という言葉に逃げこむのは、ある意味当然だろう。彼らと、何かをする者(別にしないといけないという事もないが)の差というのは、生まれつきの才能などよりも、もっと深いものに原因がある。それは人間的な深みの差であり、従って、努力や才能などのぺらぺらした差よりももっと人間的で、そして深刻なものだ。しかし人はそうは考えはない。そう考えると人はあまりに自分を強く否定されていると思うからであり、従って、いつの時代にも才能や努力という言葉が空回りし続けることになる。

 プロットの外面的な作り方(主人公を必ず辛い目に会わせる、など)は後でいくらでも学べるだろう。しかし、物語を造る上で根本的に大切なのは、この人間的深みの問題だ。自己を相対化する視点を持ち、時には、自分の反対者、敵対者に共感する事だ。ところで今、世の中はこの共感力を失いつつある。

 だが、フィクションを作る人間に大切なのはこの想像力だ。そこには当然、自分を否定する痛みがある。だが、その痛みを引き受けて、物語創作者はより高みに昇る事ができるのだ。

 物語を作る問題について、とりあえず以上のように考えてみた。この問題はもっと進めて考えてみたい。


散文(批評随筆小説等) 物語に深みを出すには Copyright yamadahifumi 2014-07-06 12:42:31
notebook Home 戻る  過去 未来