『演者』と『目』  〈社会を分割する二つの属性〉
yamadahifumi

通常の企業ではマーケティングというものがあり、消費者のニーズに答える、というのはもはや、普通のフレーズになった感がある。実際、そういうマーケティングをして消費者のニーズを把握して、物を作る企業というのもたくさんあるのだろう。

 だが、事は多分、そう簡単ではないと思う。僕は優等生的頭脳というのに元々信用を置いていない。そして、天才というのは常に、もっとも自分に信用を置いていない存在である(ソクラテスを見よ)。天才というのは誰か他人に疑われる前に先取りして、自分で自分を疑うので、その疑いのスピードの、その差によって他人と差をつけている、とも言える。…僕がどういう事を言いたいかというと、そもそも、消費者なるものは自分のニーズを的確に把握しているのか?という問題だ。消費者というのは気まぐれなものだし、アンケートを取った所で、その○とか×とかのその奥にいかなる自己認識が隠れているという事は容易にはわからない。それに○をつけた後で、「あれはやっぱり×だった」と後で思うかもしれないし、○にした所で、その判断はすぐに変わるのかもしれない。人間がそんなに自分を知っていると考えたら大間違いだと僕は思う。したがって、消費者のニーズに答える、というのは的確で単純な答えに見えるが、そもそもニーズなるものが何かと考えると、なかなか面倒な問題に突っ込んでいかざるを得ない。そして僕は面倒な問題に突っ込んでいくのが嫌いではない。

 フィクションの構造として考えるなら、初期の「めちゃイケ」はお笑いとして成立していたが、最近ではもう成立していないように見える。何故かというと、「めちゃイケ」そのもののスタンスは最初からそれほど変わっていないが、視聴者の目がどんどんと肥え、視聴者はもう番組の裏側まで平気で読むようになっているので、今では「めちゃイケ」という番組のスタンス自体が古いものになっている感がある。つまり番組そのものはそれほど変わっていなくても、視聴者が成熟するにしたがって番組はつまらなくなる。だが、それは視聴者の意識にとっては「最近はめちゃイケはつまらなくなった」ということになる。だが、番組制作側は、「最初と同じスタンスでやっている」という事になり、この意識のズレは中々埋まらない。どちらかがこの根本事象に気づかなくてはならないだろう。

 僕は芸術作品にしろ、商品・製品にしろ、基本的に消費者のニーズを越えなくてはならないと考えている。商品や製品、または芸術作品というものは、作者と読者・視聴者との闘いの、その結果である。しかし、その結果は人目を忍ぶものである。何故かというと、今はやっているものが、視聴者主導で、彼らが面白がっているから成立しているものなのか、それとも製作者主導で、その商品に人々の価値観を上回る価値があるから、売れている(売れかかっている)のか、その二つは市場では基本的に区別がつかないからである。だが、製品の話は不得手なのでこれぐらいにして、芸術作品の話に移ろう。その方が僕は得意だ。

 芸術においても、事情は全く異ならない。そこでは、読者や視聴者とクリエイターの闘いが起こっている。僕はある点から、普通の「誰々が何した」式の、普通の小説というものが読めなくなった。何というか、体が拒否反応を起こすのだ。「誰々が何した」式で言うと、一番わかり易いのはフローベール辺りだろうか。あるいは世の中に氾濫している小説の大半はそうだったと言ってもいいだろう。僕がそれらの作品を読めないのは、それらが、「今からここにあるのはある種のお話であり、読者はこの中の人物に感情移入しなければならないぞ」と言明しているように見えるからである。井野裕氏という書き手に「じぶん。」という小説がある。この「じぶん。」という小説では、作者と読者が応答を交わし、なおかつそれがフィクションとして小説となっている、そのような構造が見られる。作者がこのように作者ーーー読者の関係だけを取り出して作品化し、その間の普通の「お話」を取り除いたのは、作者も僕と同じように、普通の物語だけでは足りないと思ったからではないだろうかと僕は考えている。もはや、普通の物語、普通の主人公が運動して何か物語を紡ぐ、通常の小説の形式だけでは僕達はなんとなく物足りないと思うようになってきている。そこで、井野氏のようなトリッキーな方法論も現れてくる。僕はそう思っている。とにかく、小説という形式においても、読者の認識というのは極めて大きな問題であり、今の小説家の中でこの問題に取り組んでいるのが少数に見えるというのは僕には意外の事実だ。

 神聖かまってちゃんに「drugsねー子」という曲があり、この曲は僕は好きなのだが、しかしそんなに人気のない曲のようだ。神聖かまってちゃんというのは意外に色々な方法論を持っているのだが、その一つに『自分の駄目さを見せつける』というものがある。そんなものが方法論なのか?、と問われたら、これは間違いなく、現代に対して有効な一つの方法論であると断言できる。(僕も『アンチ礼賛』という短編小説でこの方法を使わせてもらった。)では『自分の駄目さを見せつける』というのは、どういう事か。それはつまり、こういう事だ。今の世の中はーーあるいはネット上では、自分の事を棚に上げて、他人を非難中傷する人間が実に多い。彼らは常に、自分自身の姿を忘れて、そして他人やら有名人やら、ある作品やら出来事に対して好き勝手に論評する。そして、彼らは手を下さずにそのものを破壊する事ができる。これがインターネット時代の大衆的ファシズムの本質だ。人々は自分の存在を忘れ、大多数に紛れ、そしてそれは純粋な波のような一つのイデオロギーとなる。そしてこのイデオロギーはこの世界ではもっとも強固なものである。彼らを法律で罰するわけにもいかず、とにかく、少数派並びにクリエイターは、彼らの懐柔につとめなければならない。これがそれまでの現実だった。

 だが、神聖かまってちゃんは彼らに斬りかかる。つまり、誰かが「お前はダメだ、クソだ」と言うと、神聖かまってちゃんはそいつにこう言い返す。「確かに俺はダメだよ。ああ、ダメさ。だが、それがなんだってんだ。俺はダメだしクソだよ。だが、それがどうした。いいか、よく聞け。俺はダメなんだよ、俺はクソなんだよ。だから、どうだって言うんだ!」。もはや、めちゃくちゃである。しかし、現代においてはこうするほかない。他に方法はない。僕は神聖かまってちゃんが何故そういう方法論を取ったのか、痛いくらいによく分かる。今は何をした所で、冷笑的に見られる時代である。読者と視聴者の認識は極限を越えて、それは更にクリエイターを圧倒している。だが、実際の所、今のクリエイターの多くは、ただ読者や視聴者の圧力の元に、その技術を振り絞る事を余儀なくされているだけなのだ。この重圧はヒットメーカーなどは一番強く感じているだろう。彼らはもはや、自分にオリジナリティのかけらも残っていない事を痛感するだろう。テレビの上の一番の人気者は自分が、誰かに操られている事を常に感じているだろう。そしてそれを感じていないとすればそれはその者が鈍感だからだ。今、あらゆる場面で、クリエイターよりも視聴者の方が優位に立っている。そして、現代の一番重要な問題というのは、この視聴者の存在が、インターネットを通じて、一つの自我ある存在になったという事にある。テレビ時代においてもそれは既に強烈な権力を握っていたが、インターネットに変化して、各個人はそれぞれ『声』を発するようになった。したがって、重大なのはーーーインターネットによってほとんど全ての人間がクリエイターになったという事にある。これは非常に厄介な問題である。と、すると当の、あるいは本当のクリエイターはどうなるだろうか?。それまでのクリエイターは、この無限に湧いたクリエイターの中に埋没してしまうのではないか?。…今、我々に起こっている問題というのは、正にそういう事である。そこでは確かにクオリティのわずかな差というのはあろうが、そんな差というのは大した差でもない。今、クリエイターというのは、万人がクリエイターになっているという事実の中にゆっくりと埋没していっているのである。そしてこれに対抗するには、もはや「クリエイターの視線を持った視聴者を越える視線をクリエイターが持つ事」、それしかない。そしてそういう問題を最初に開示してくれたのが、僕にとって神聖かまってちゃんだったというわけだ。

 
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 量子力学においては、観察という行為が観察対象そのものに影響を与えてしまい、完全に正確な観察結果というものは得られない。つまり観察する主体が、観察されるものに影響を与え、観察されるものはそこで変化してしまい、僕達が捉えるのは常に、この変化後の対象ということになる。

 量子論の話はもっとややこしいのだが、僕は文系なので、この程度で許してもらおう。では、量子論を僕らの現実に当てはめてみよう。それはとても簡単な事だ。つい今さっき、自分のTwitterのフォロワーを増やすために十代の少女が、自分の裸体をネット上に晒すのが問題になっているというニュース記事を見た。そこのコメント欄は大抵「阿呆なガキだ」みたいな調子だったが、僕はそうは思わない。その子達が別段賢いとは思わないのが、しかし、こういう問題も考えてみるに値する。そして、これらの十代の女子は(報道が事実として考えると)、みな、他人の視線を欲しがっている。今はAV女優などの仕事ももはや汚れ仕事ではなく、むしろ華やかな仕事と思われている節がある。今の十代においては、僕らの世代よりも更にそうなっているだろうが、多分、他人の視線の中にいないと自分が存在しないと思っているのだ。僕はそんな気がする。そして、これは彼らの罪ではない。だが、彼らが抜け出なければならない問題ではある。

彼ら、今の十代というのは、その人生の初めからインターネットやスマートフォンに囲まれている。したがって、常に第三者の視線を自分自身に感じている。彼らとってコミュニティとはおそらく視線の事であり、他者の視線の中でこそ、自分達が存在できる。…おそらく、世代論に分割するべきではないが、まあこのまま続けてみよう。僕は先日、ユーチューブのユーチューバーという存在を見て、心底薄ら寒いものを味わった。それはYOUTUBEの動画上で、今の十代の高校生などが、「知り合いの女の子に告白してみた」などと人目を集めそうなトピックで短い動画を短期的にアップしているものだ。そして、それが心底薄ら寒いのは、そういう行為で自己主張をしようとする魂胆だ。なんと空っぽなのだろう。なんと空虚なのだろうか。こんなものが現代の文化なら、この世界まるごと消えてしまったほうがいっそさっぱりするだろう。…おそらく、こういう行為では、アップ主は再生回数やコメントなどを病的に気にするのだろう。僕もこうしてネットに文章を載せているので、他人の事は言えないのだが。だが、こういうユーチューバーは、僕達に一つの可能性を呈示している。つまり、彼らの存在まるごとが映像の中でしか存在できない存在である事。そして、その事により浮かび上がる事実ーーーつまり、現実の私達が無である、というその事だ。これは恐ろしい事だが、しかしもう僕達はそれに馴れ初めている。

 僕達が視線の中でしか存在できない生物であるという事は、既に携帯電話の無意味なメール等のやり取りで示されていた。しかし、それはインターネットにおいて立体化した。人間というのは今、おおまかに二種類に分割する事ができる。それは、映像の中でのみ存在する、『仮像としての存在』。そしてもう一つは映像を見つめる『目』である。つまり、世界には今、たった二つの存在しかない。それは映像の中の仮像と、そして映像を見つめる目である。そして、この仮像ーーーこの『演者』は、この目に合わせてのみ踊る事を許されている。なぜなら、この目というのはもはや絶対的な権力だからである。人々の意識がウェブ上で一つになり、そしてそれは一つの巨大なイデオロギーとなる。そしてこれは目となって現れ、多数派としての絶対権力を振るいつつ、『演者』に様々な要求をする。そしてこの要求を突っぱねるもの、あるいはこの目が単に気まぐれから気にいらないものはかたっぱしから跳ね飛ばして平気である。なぜなら、彼らは多数派であるので何をしても正しいのである。少なくとも、そう思い込んでいるのだ。

 だが、この目には一つ、問題がある。それはその目はいつも多数派であって、全体として溶けているので、それは決して個人としての虚栄心を満足させる事ができない。そして、その為に出てくるのがもう一つの機能ーーつまり、『演者』である。演者は、ユーチューバーみたいな、空虚な存在として現れてくる。そしてそれが空虚でなくとも、結局の所、『目』の下位に属する存在である事に変わりはない。人々目がけて、人々の好む踊りを踊れば、人々はとりあえず喜んでくれる。こうして、この世界はこの二つの属性に分離される。『演者』と『目』と。そして、どちらも互いを補完しあっている。だが、これは別に完璧で美しい体系なわけではなく、人々がそれぞれの欲望を充足させるために生み出した暫定的なシステムである。さて、今世界はこのように二分割されている。そして、僕達がーーー少なくとも、僕がこれからやらなければならない事は立派な演者になる事でもなく、目の一つとして誰かを思い切り叩いて溜飲下げる事でもない。僕がやらねばならないのは、この二つを思い切り蹴飛ばす事だ。このゴミのようなシステムを破壊する事だ。少なくとも、そう意図する事だ。こんな人々の予定調和の観念の中で生きるという事は、僕らにとってあまりに息苦しい事実なのだ。僕達の魂は常にこの社会の器より少しだけ大きくできている。

 とりあえず、これが今の僕の現状認識、社会認識だ。実際、社会がどのような事になっているのかというのはもちろん、誰にも理解出来かねる事だ。しかし、今のこの錯綜した現実を何とか、こちらの知性でねじ伏せようと僕もそれなりに脳を働かせたつもりだ。アカデミックなものは見かけだけで、元々大した期待はしていないし。とりあえず、これが僕の今の現状認識だ。これを人がどう思うかは、人の勝手に属する。
 


散文(批評随筆小説等) 『演者』と『目』  〈社会を分割する二つの属性〉 Copyright yamadahifumi 2014-06-20 18:07:43
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