読書スタイルについて
ななひと

なんか官公庁みたい。
えーと、大学のゼミとかでよくつかわれる脅しの言葉「君〜は読んだかね?」この攻撃なんどもくらいました。泣かされました。泣く泣く読みました。追いつかなくて睡眠時間を削りました。確かに得るものがないとはいわない。もちろんそういう背景知識がないとわからないこともたくさんある。それ自体が悪いとは決して言わない。しかしここで問題にしたいことは、この言葉がもっている行為遂行的な(パフォーナティブな、でわからなければ暴力的な)機能についてだ。「君は〜は読んだかね?」ということばは「君は〜も読んでおらずにこの部分を解釈しようとしたのか、それじゃあここの精密な読みは出来るわけないじゃないか。読みなさい、全く」という言葉は相手にその読書を強要する権力を発生する。それを読んで身につけた者は、それを別の「無知」の人間に強要するだろう。それが「教育」と言えば言える。
「読書」に話をもどせばどうか?私たちは「読書」の場においても無意識にこの「教育」イデオロギーに支配されていないだろうか。私たちは何を読もうとするか?世間にはいろいろな誘いがある。それから「読書」する。それは「蓄積」される。それは各個人同じ。問題は、その種の読書にも「権力」関係が色濃く反映されていることだ。ある分野の必読書。「詩」ではどうだろうか?ここでもやはり「権力」が発揮されている、『現代詩手帖』は未だ最高の権威たり得ているし、ネットの世界も有名人無名人たくさんいる。強弱の権力が無数に氾濫している状態だ。こんななかで我々はいったい何を読み、何を読まずにおくべきだろう。ここで私の考えをひとつだけ述べさせてもらいたい。文学的価値なんてものはない。語弊があるなら、文学的価値は複雑な諸関係の言説の束で決まる、ということである。これがわからない人はフーコーの著作をよむように(笑)。詩の価値を決める絶対的尺度が仮にあるとすれば、それはすべて生産される詩を読むことが出来る神に近い猛烈な読書家(しかもその解釈はつねに正しい)であり、実際上そんな存在はありえない。我々は、我々の持ち駒だけをもとに、いったい価値があるのかないのかわからないものに出会うのであり、しかもその価値を決めるのはまぎれもない自分なのである。自分しか読書の基準は持ち得ないのである。そして自分は絶対の存在ではない。だから、作品とは流れ作業で流され読まされるものではなく、ひとつひとつが出会いなのである。もちろん無駄なであいかもしれない。しかしそれも、自分にとってであって他人にとってはそうでないかもしれない。あくまでも自分の問題としてその読書体験を心に刻むべきだ。私たちは限りない情報の中でむしろ五里霧中状態に陥っている。それを、「必読書100」なんかで補うのはナンセンスだ。我々は五里霧中にいることを自覚しつつ、五里霧中の中で自分だけに通用する価値体系を作らねばならない。「読まされる」読書ほどつまらないものはない。なにも「読ませる」のは先生だとかえらい人ではない。自分が自分に「読まなきゃ」という枷をはめた時点で、その人は「読まれて」しまうのだ。我々は「読ま」なければならない。











散文(批評随筆小説等) 読書スタイルについて Copyright ななひと 2005-01-19 02:10:01
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